特設サイト第3部 第6回 葛藤する経営権と教学権

  • 紛争再燃を伝える「名城大学新聞」(1959年9月1日)
    紛争再燃を伝える「名城大学新聞」(1959年9月1日)

理工学部長からの電報

  • 昭和30(1955)年代の機械工学科の実験実習室(『名城大学理工学部の歩み』より)
  • 昭和30(1955)年代の機械工学科の実験実習室(『名城大学理工学部の歩み』より)

1959(昭和34)年8月19日。理工学部機械工学科3年生だった上田久さんは、夏休みで帰省していた兵庫県宍粟(しそう)市の実家で、理工学部長だった小澤久之亟(きゅうのじょう)教授からの電報を受け取りました。8月23日に登校せよという内容でした。

上田さんはこの年6月、理工学部(中村校舎)学生会会長に選出されていました。実家で、秋の大学祭企画について思いめぐらしていた矢先の小澤教授からの緊迫感漂う電報。「大学の紛争がただならぬ事態に突き進んだに違いない」。上田さんは直感的に察しました。父親は上田さんが大学1年生の時に他界していましたが、母親には大学の紛争の様子は伝えていました。「あなたはもう大人。しっかり自分で判断して決めなさい」。母親はそう言って、上田さんを名古屋に送り出してくれました。

上田さんは後に、この時直感した“ただならぬ事態”こそ、「10年に及んだ名城大学紛争の結末を告げる大噴火」であり、名城大学が生き残れるどうか、最大の試練だったと痛感することになります。

理工学部長室で

  • 鷹来校舎で音速滑走体の実験準備をする学生たち(1959年4月29日。小澤教授の研究論文集『音速滑走体』より)
  • 鷹来校舎で音速滑走体の実験準備をする学生たち(1959年4月29日。小澤教授の研究論文集『音速滑走体』より)

小澤教授は東京帝大国大学工学部船舶工学科を卒業し、三菱重工名古屋航空機製作所に入社。戦時中は傑作機と言われた重爆撃機「飛龍」を設計し、陸軍大臣賞を受賞しています。戦後はGHQの命令で飛行機関係の仕事に関わることが一切禁じられていたこともあり、多くの航空技術者たちが大学の教職に就きましたが、小澤教授も旧制名古屋専門学校教授を経て名城大学理工学部機械工学科の教授となっていました。

小澤教授は航空部の学生たちのためにグライダー設計などの指導にあたるとともに、飛行機に代わる新たな挑戦として、機械工学科の教員や学生たちを率いて、回転翼を利用した「ヘリグライダー」、ロケットの推進力で時速1200キロの音速(マッハ)規模での地上走行を目指した「音速滑走体」の実験にも取りかかっていました。1959年4月29日には春日井市の農学部校庭で、実物20分の1での模型実験が行われ、東京~大阪を30分足らずで結ぶ“夢” の実験は全国からも注目され始めていました。

小澤教授は1958年5月からは、数学科の加藤平左衛門教授に代わって理工学部長の職にありました。紛争に伴う多忙な学部運営が、67歳だった加藤教授に代わって53歳だった小澤教授に託されていたのです。

上田さんは指定されたとおり、8月23日午後、中村校舎にある理工学部長室に入りました。小澤教授は上田さんに、ソファーに腰をおろすよう勧め、差し向かう形で、名城大学の紛争の内容、経過について順を追って語りました。

第2次紛争

『名城大学75年史』によると、1958年11月13日、名城大学では理事長・学長の就任式が行われ、田中壽一理事長、大串兎代夫(とよお)総長(学長)に代わる日比野信一学長という新体制のもとで再建に乗り出すことになりました。ところが、1959年度に入ると田中理事長の経営方針を巡って、理事会内でも意見が割れていきます。7月17日、突如、日比野学長の罷免が発表され、8月5日には4学部長に解雇通知が送られました。8月15日には短期大学部長、学生部長、教務部長、附属図書館長、教職課程部長など教学の中心となっている教授の全員に解雇が通告されました。

解雇通知が送られた学部長は村井藤十郎法商学部長、小澤理工学部長、宮脇勝一農学部長、玉虫雄蔵薬学部長。解雇通告されたのは柴山昇短期大学部長、加藤晴治学生部長、近藤良男教務部長、渡辺鎭雄附属図書館長、高岡潔教職課程部長、加藤平左衛門協議員ら。教学の中心となっている教授の全員が解雇を通告されるという異常事態となったのです。

各学部長は「学部長は各学部教授会の選挙を経て就任するものであって、理事長の一方的通告によって解任されるものではない」とし、解雇の無効を理事長に通告。名古屋地裁に訴えが起こされ、解雇無効の判決が出るまで大学は混乱を続けなければなりませんでした。名城大学は第2次紛争のドロ沼に入り込んでいったのです。

「私が作った学校だ」

7 月30日に開催された全学教授会は、「田中理事長の独裁による学長の罷免、各学部長、部長(職員)の不当解雇、6月25日以降の人事、機構改革は法律に反し、大学と学内組織を無視する暴挙である」として、「全学一致して田中理事長の退任を要求する」と決議します。この教授会の決議を伝える「名城大学新聞」(1959年9月1日)では日比野学長、田中理事長の見解が紹介されています。

<強く退任を要求する 日比野学長談> 田中さんはなんでも理事長個人の独断でやれると勘違いしている。このような調子で学校がつぶされてしまうのではないかと心配だ。この決議で非を悟って身を引いて下さると一番ありがたい。いずれにしても退任されるまでは、あくまでたたかうつもりだ。

<私が作った学校だ 田中理事長談> 私に協力しないから解任した。名城大学は私がつくった学校で、私がどうしようと口を出すことはない。金の使い道などはっきりしないもの多く、彼らは学校を食い物にしている。教授会には私の退任を要求する権限がないので、要求は受けない。

紙面にぎわす紛争記事

再燃した名城大学の学内紛争は新聞でも連日報道されました。1959年8月27日「中部日本新聞」(現在の中日新聞)には「ついに給料ストップ」という記事が掲載されました。

  • 「給料ストップ」を報じる「中部日本新聞」(1959年8月27日)
  • 「給料ストップ」を報じる「中部日本新聞」(1959年8月27日)

 

名城大学(名古屋市昭和区駒方町)では25日は給料日だったが、同日夕刻、“学園騒動により融資の道がとだえ、新しく授業料が入るまで給料は支払えない”と理事長声明を出すとともに、26日にも給料をストップ。教職員組合は“生活権の問題だ”と憤慨、対策を協議している。声明によると「文部省の助成金1000万円と銀行の融資予定の6000万円がストップした。この原因は学校の秩序を乱した分子たちによるためだ。このため新授業料が入ってこねば給料は払えぬ」といい、組合側は「自分の失敗を押し付けたためだ。そのうえ理事長は団交にも応じないので法的手段を考えている。組合員は212人で約500万円にすぎぬ」と反バクしている。

名古屋では唯一の夕刊紙の「名古屋タイムズ」(2008年10月31日発行で休刊)には「名城大学事件」として、1面トップ扱いで突っ込んだ記事が何度も紹介されました。1959年8月30日1面では、9月の新学期を前にした名城大学について「田中理事長側、苦境に立つ」「財政難いよいよ深刻」と報じています。そのリード文です。

再び火を吹いた名城大学事件は、9月の新学期を目前にしていま一つの転機に直面している。日比野信一学長以下、すでに19名の首切りを強行した田中壽一理事長らは、なお強硬な態度を見せているが、財政難から教職員の8月分給料が支払えず、しかも学生側が授業料不払いを決めているため。今後の資金のメドすら立たないところへもってきて、日比野氏の学長呼称禁止などの仮処分も難航、田中理事長側が窮地に立たされているのだ。このため田中陣営の一部が相当に動揺、“このさい、これまでの首切りを撤回して妥協しよう”との声さえ聞かれるというが、果たして教授会、組合、さらにはクビになった田中卓郎、小島末吉両理事らがこれに対してどう出るか、このままいけば再び長期の紛争にもなりかねないだけに、関係者たちは等しく心を痛めているのだ。

教学権と経営権

  • 理工学部長を2回のほか学長も務めた小澤教授(1966年卒業生のアルバムより)
  • 理工学部長を2回のほか学長も務めた小澤教授(1966年卒業生のアルバムより)

「大学の理事長たるものは学長と対等に、よく話し合っていかないと。名城大学はもう何千人という学生数になっている。こういう大きな大学になってしまった以上、勝手なことをしてはいけない。経営権と教学権とがいいバランスが取れた形で大学を運営していかなければならい。経営権が膨大な力を持ってしまった。力を持つことはいいいが、それが最終的に教学権たる教授会をよくリードするものでなければならない。しかし、そうはなっていない」。
中村校舎の理工学部長室で、小澤教授は上田さんに、1時間近く、名城大学が置かれていた状況を、遠回しな表現でしたが語り続けました。当時の学生数は全学で約6000人。理工学部の学生数は半数近くを占めていました。上田さんはその理工学の学生会長として、学生たちをどのような方向に導くか、自分が重要な位置に立たされていることをひしひしと痛感しました。

「この紛争をどのような方向にしろ、決着に導くのは今や学生です。理事会でも教授会でもない。君たち自身だ。君の思う通り行動を取ればよろしい。私はあずかりしらぬことです」。小澤教授は上田さんを見据え、突き放すように言いました。そして最後に、「君の行くところへは私も行かなければならない。その道が、決着がどんなものであろうとも」と付け加えました。

「小澤教授は、理工学部の学生会がどういう態度に出るかで、この学校がだめになるかどうか決まる。それを決めるのはお前たちなんだと、ことの重大さをていねいに説明してくれました。今、考えれば、小澤先生は、今後の学生たちの動向を判断する意味でも、僕がどんな反応を示すかを知りたかった面もあったのではないかと思います」。
愛知県知多市の自宅で、上田さんは、保存してあった当時のメモや資料を示しながら、55年前の情景を語りました。

全学学生大会での決議

  • 名城大学紛争の解決を訴えて名古屋市内で署名活動する学生たち(『農学部30年の歩み』より。1960年6月)
  • 名城大学紛争の解決を訴えて名古屋市内で署名活動する学生たち(『農学部30年の歩み』より。1960年6月)

上田さんは入学前から、「飛龍」の設計者でもある小澤教授の名前は知っていました。小澤教授の話を聞いて、改めてすごい人だと思ったそうです。「話はよく分かりました。今後ともご指導をお願いします」と礼を述べ理工学部長室を出た上田さんはその後、学生会執行部の仲間にも、小澤教授との会見について報告しました。すでに、上田さんの腹は決まっていました。「この時点で、学生が経営権側の立場につくことはありえない」と。

9月6日、駒方校舎のグラウンドで全学学生大会が開かれました。全学生の半数近くを占める理工学部。授業料など大学への学納金額でも理工学部の占める割合は大きいだけに理工学部学生会長である上田さんの発言に注目が集まりました。据え付けられたマイクの前で上田さんは、「学生は教学権の側に立たなければならない」と訴えました。

集会に集まった学生たちから、上田さんの発言に大きな拍手が起きました。上田さんらの発言をまとめる形で全学学生大会は田中理事長の退任要求を決議したのです。

上田さんのノートには次のように記されていました。

学長の罷免に始まり、17名の諸先生方の馘首及び解雇の一方的不合理性と独自行為、又新任命令等の独断行為をなした上、学校閉鎖、学部廃止、校舎移転等を始め、不可解な同志会、出所不明な印刷物配布、及びあらゆる手段による学生会組織の破壊行為と学生の弾圧と攪乱行為により、創設者であると云えども退任を要求せざるを得なかった。

縦糸と横糸の教育

小澤教授の教え子たちが、定年退職記念事業として発行した、小澤教授の研究論文などを収録した『音速滑走体』(1979年)には、大同特殊鋼に勤務していた上田さんも「先生のこと」という一文を寄せています。

先生は、個人的な他人の行動批判は一切されず、各種の会議、集会の席でも大学としてのあるべき姿を、いつも淡々として、噛み砕き説明された。その不退転の姿勢は多くの学生に感動を与えた。しかし、決して自説を強制されず、むしろ学生を尊重された。その裏返しに、学生の甘えを一切許さない姿勢、知ること、そして行動することの大切さ、必要性を、学生に対して、あの大紛争の最中でも実践し示された。これらの全てが一番鮮明に受け止められる立場にあったのが学生会代表の当事者であった私であった。
昭和35年半ばだったと思う。全学学生協議会名で配布した統一ビラ(小冊子)の中に重大な誤りがあり、名誉が著しく毀損されたとして、考え方の異なる立場の人から訴えがあり、私は生まれて初めて地方検察庁の門をくぐったことがある。この問題で前後数回取り調べを受けたが、この種のことが不起訴になるであろう判断よりも、時の小澤先生は「君が違法行為をしたというなら僕も同罪だね」と言われ、学生の行為は即自分の行為として受け止め対応された。
教育指導というものが、突き放しという縦糸と、抱きかかえという横糸のバランスによって織りなされるものであることを、今さらながらしみじみと感じる。まして、あの大紛争の真っ最中でも、それを実践されたあの先生の姿勢が学生の動揺を鎮め、昭和34年夏に起こったさすがの大噴火も、翌35年末には鎮火の方向に向かう最強の原動力となったわけである。

心の重しが取れて

  • 理工学部学生会長としての紛争とのかかわりを語った上田さん(愛知県知多市の自宅で)
  • 理工学部学生会長としての紛争とのかかわりを語った上田さん(愛知県知多市の自宅で)

上田さんは2014年3月の「スペシャルホームカミングデイ」の案内状は受け取りましたが、参加しませんでした。名城大学を1959年3月から1963年までに卒業した人たちが対象で、1961年卒業の上田さんはもちろん対象者です。親しかった同級生の何人かからも「上田が出るなら自分も出るが」という電話がありましたが、上田さんは参加しませんでした。小澤教授の退職記念誌への寄稿文で触れていた「地方検察庁の門をくぐった」ことが、ずっと重く心にのしかかっていたからです。

検事からの呼び出しに、小澤教授は「いよいよ困った時は、言ってくれれば僕でも法商学部長でも行くから」と送り出してくれました。しかし、上田さんら学生6人を名誉棄損で告訴した“考え方の異なる立場の人”は、兵庫県の実家には上田さんの母親あてにも、威圧的とも思える文書を送りつけていました。

「善処もされない場合は、私は私の名誉を守るため、学生協議会の責任者として御子息に対し、法的措置をとらざるを得なくなりました。師弟の間柄で甚だ残念なことではありますが、私の苦衷をお察しの上、ご了察下さいますようお願い致します」

1年前の夏には「あなたはもう大人。しっかり自分で判断して決めなさい」と名古屋に送り出してくれた母親ですが、息子の“師”を名乗り、印鑑まで押された大学から送りつけられたいかめしい文面を見たとき、どれほど不安にかきたてられたことか。上田さんが保存していた母親あてのその実物の文書を見せてもらった時、胸が痛みました。

上田さんは2時間半にわたって語ってくれました。「あなたが当時の名城の関係者と利害関係が何もないことが分かったので話すことができました。これで、やっと吹っ切れました」。卒業以来53年間のトラウマから解放されたかのように、上田さんは奥さんに冷蔵庫からビールを持ってくるよう声をかけました。よく冷えたビールを注いでくれた上田さんは嬉しそうでした。

外国技術書読む力を

1959年7月に発行された機械工学科の研究誌『名城大学機械会誌』第3号には、小澤教授を始め所属教員たちの研究所感やエッセイが収録されていますが、不思議なことに紛争に関した話題は全くありません。小澤教授も「機械工学科の躍進」というテーマで、名城大学理工学部機械工学科の卒業生の就職が好調なことを書いています。高度成長期という時代背景もあるのでしょうが、「この現状では来年3月卒業する卒業する諸君も、就職難など何処の国のことかといったことになりそうである」と指摘したうえで、学生たちを受け入れてくれた企業の期待を裏切らない大学教育の責任についても触れています。

小澤教授は優秀な技術者となるために学生時代につけておくべき3つの力を挙げています。①見たものは何でも絵にすることができる能力②手近なものを何でも設計して図に書いてみる③外国技術書を読みうる能力――。外国技術図書に関しては「工場へ出た人たちはこの能力がいかに必要かを体験するであろう。この能力がないために、工員に馬鹿にされ出し、一生を不幸にした人もある。大学卒業生は外国技術図書を自由に読みうる能力がぜひ必要である」と記しています。

流体力学、航空設計などの科目を担当した小澤教授の授業では英語で書かれた原書がテキストに使われましたが、小澤教授によって英語力を鍛えられたという卒業生は少なくありませんでした。

藤吉正之進教授は「機械工学科の過去現在未来」として、機械工学科の在籍者が925人が薬学部、農学部の全学生数に匹敵することを挙げています。藤吉教授は、学生数は増加の一途で3年後には1500人を超えるのは必至であるとしながらも「これら学生の教育設備が全くない」とも書き、実験設備の建設を早急に準備しなければならないと訴えています。

機械工学科の在籍学生(1959年度)

第1年次 第2年次 第3年次 第4年次
第一部 211人 122人 99人 72人 504人
第二部 138人 139人 101人 43人 421人
349人 261人 200人 115人 925人

(広報専門員 中村康生)

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