特設サイト第3部 第2回 名城節が吠えた日

  • 2013年3月19日のスペシャルホームカミングデイで名城節を踊る宮司さん
    2013年3月19日のスペシャルホームカミングデイで名城節を踊る宮司さん

田中総長退任と復権への余地

  • 「田中退任」を伝える「中部日本新聞」(1954年11月16日)
  • 「田中退任」を伝える「中部日本新聞」(1954年11月16日)

「田中名城大学総長ついに退任」――。1954(昭和29)年11月16日「中部日本新聞」(現在の中日新聞)は、名城大学の田中壽一総長(理事長)退任のニュースを社会面トップ記事として報じました。6月5日の教授会決議で即時退陣を要求された田中理事長は、11月15日午後1時半から、駒方校舎の大学本部で開かれた理事会での決定に従い身を引いたのです。しかし、紛争はこの時点で終結したわけではありませんでした。理事長・総長辞任登記など、法的手続きは取られておらず、田中理事長復権の余地が残されていたからです。

「身を引いて収拾をはかりたい」

この日お昼前、グレイの合オーバーに身を包み、愛用の50年型フォードで大学に乗りつけた田中氏はそそくさと階段を上って2階の総長室に姿を消したが、すでに決するところがあってか、ホリの深い顔の奥には微笑すら浮かべていた。会議はそれぞれ委任状を託して欠席した厚相草場隆円、大隈鉄工社長大隈孝一の両氏を除き、松坂屋副社長佐々部晩穂、今岡建設社長今岡正益、名城大学理工学部長伊藤萬太郎、同電気科長高阪釜三郎の4理事に、理事長田中壽一氏、経理担当理事田中コトさん(総長夫人)の2人も加え、さらに同学監事の愛知県地労委会長野村均一、東海毛織社長小出仁三郎、元理工学部後援会長羽根田薫の3氏もオブザーバーとして出席。総長室で開かれた。
まず、さる13日松坂屋で開かれた前回の会議の結果を検討したうえ、午後3時半ごろから別室で理工会、同窓会、学生会、教授会の各代表とそれぞれ別個に会見し、改めて意見を聴取。午後11時半まで延々10時間にわたって続けられたが、午後10時50分ごろになって一応会議を打ち切り休憩中、田中氏はすすんで辞意を表明し始めた。11時5分再開と同時に、「自分の大学の中に教職員組合が生まれ、全学的な退陣要求を受けた今、とにかく身を引いて事態の収拾をはかりたい…」と理事会に対して正式に辞意を表明。理事会としても田中氏の意をくんでこれを受理。ここに大正15年、私財をいっさい投げ打って、名古屋高等理工科講習所を設立してから29年間、手塩にかけてきた学園から田中氏は別れを告げることになった。(記事本文要旨)

伝習館の後輩たち

委任状を出した草葉隆円(くさばりゅうえん)氏(1895~1966)と出席した佐々部晩穂(ささべくれお)氏(1893~1979)はいずれも福岡県柳川市出身の田中理事長と同郷で、中学伝習館(現在の県立伝習館高校)出身。田中理事長の後輩にあたります。

草葉氏は愛知選挙区を地盤に1947(昭和22)年から参議院議員に4回当選。自由党、自民党に所属し、第3次吉田内閣の外務政務次官として単独講和条約を準備。名城大学理事として紛争調停にあたっていたこの時期、第5次吉田内閣で厚生大臣を務めていました。
佐々部氏は京都帝国大学を卒業後、日本銀行に入行。伊藤銀行(旧東海銀行の前身で現三菱東京UFJ銀行)の副頭取に就任。戦後は松坂屋、東海銀行、中部日本放送(CBC)の各会長を歴任し、名古屋商工会議所会頭も務めた名古屋財界の重鎮です。
出席した理事たちは記者会見し、佐々部理事が「田中氏の30年にわたる功績に報いるため特に本学創設者として優遇することを決定した」とする内容を盛り込んだ声明を発表しています。

佐々部氏は『私の履歴書』(日本経済新聞に1961年12月に掲載)の中で、名古屋初のテレビ塔の完成(1954年6月)など、この当時の名古屋が、日本経済の復興につれて急速に発展していく様子と自身の地元経済界との関わりを語っています。
「私も松坂屋の仕事をやるかたわら、昭和25年には明治時計社長阿部広三郎君と発起して合板製造の東洋プライウッド工業(現在会長)を創立、30年には名古屋造船、中部精工の会長、ホテルニューナゴヤの社長となり、31年には名古屋パルプ、東洋楽器を設立して社長となった。このほか、現在、輸送機工業、名古屋汽船の会長、大同メタル、東邦理化工業、名古屋製陶、名古屋倉庫などの取締役を兼ねている」。

草葉氏や佐々部氏のように、この当時の超多忙な2人。名城大学理事として、複雑な紛争調停にあたったのは、同じ伝習館で学んだ絆とはいえ、大変な負担だったに違いありません。

解説記事にこめられたエール

11月16日の「中部日本新聞」紙面は、本文記事のほか、「退任決定後、肩を落としてショウ然と廊下を去る田中総長」、「記者発表する理事者側」の写真。教授会代表、学生会長の談話、解説、「学究的な総長を迎えるべきだ」という匿名の名城大学教授の声とボリュームのあるサイド記事で埋まっています。解説記事は拡張戦略ではなく内部の充実の重要性を指摘しています。それは、紛争を乗り越えた発展への期待が込められたエールとも言える記事です。

今度の総長追放運動では、田中氏の独断で運ばれた東京法学部建設問題が直接の動機となっているが、原因は遠く創立当初までさかのぼっていた。学生会では田中氏のみでなく、側近4氏の退陣要求をも掲げていたし、今後後任問題その他をめぐってなお波紋は残されるかもしれない。
戦後急激にふくれ上がった同大学に対しては“風船大学”のアダ名をつけたものさえあるが、学生総数8000名。授業料収入2億余円のうち、人件費や常備費に食われるのはせいぜい6、7割。今後、いたずらにふくれ上がるのを止め、内部施設の充実に力を尽くしていけば、地方大学にはめずらしい一流教授陣をそろえた名城は躍進の途をたどることであろう。

呼び止めた理事長

1952(昭和27)年に法商学部商学科に入学した静岡県浜松市出身の宮司(みやじ)正幸さんは、入学間もないころ、駒方校舎で田中理事長に呼び止められ、下駄ばきを注意されました。「ここは下駄をはくところじゃない」。宮司さんは、自分を呼び止めたのが大学創設者であるとは知りませんでした。「ひげちょろ、禿げ頭。貧相なおやじが何を言っているのかと思った」という宮司さんは、思わず「何を」とやり返してしまったのです。しかし、その応酬ぶりに、田中理事長の顔が懐かしそうな笑顔に変わりました。「遠州弁か」。田中理事長は名古屋高等理工科講習所を創設するまで、浜松高等工業学校(静岡大学工学部の前身)教授だったからでした。

この出会いがきっかけで、宮司さんは田中理事長に目をかけてもらうようになりました。理事長室に呼ばれ、お茶とお菓子をご馳走してもらったこともあります。その後、応援団副団長になった宮司さんは、金庫を握る田中コト理事長夫人と運動部との間に入り、遠征費などの出費を頼み込んだりしたこともありました。学園経営で奔走する田中理事長の苦労は理解しているつもりの宮司さんでしたが、法学部の東京進出についてはっきり自分の考えを言いました。「先生。僕は先生のやっていることには反対もある。名古屋では校舎も十分でないのに、東京なんかに学校をつくってもらっては困る」。しかし、一学生の立場では、ひた走る田中理事長を止めることはできませんでした。

名城大学では1954年11月16日、前日の理事会で就任が決まっていた今岡正益理事長事務取扱によって、総長代理に弁護士でもある野村均一氏、事務局長に元名古屋市教育長の竹田健一氏などの人事が発令されました。新法人は教授会と緊密に連絡を取りながら再建活動を開始しました。今岡理事長事務取扱は文部大臣、愛知県知事に「学内問題経過報告書」を提出。東京法学部増設計画を中止し、文部省に提出した申請書を取り下げました。

総長不在の入学式

  • 総長不在で行われた1955年4月の入学式(同年5月10日「名城大学新聞」より)
  • 総長不在で行われた1955年4月の入学式(同年5月10日「名城大学新聞」より)
  • 鳴海球場での愛知学院大戦に5000人を集めた1955年当時の名城大側応援スタンド(應援團60周年誌より)
  • 鳴海球場での愛知学院大戦に5000人を集めた1955年当時の名城大側応援スタンド(應援團60周年誌より)

1955(昭和30)年4月30日、駒方校舎講堂では、創設者が出席しない形では初の入学式が行われました。「名城大学新聞」(1955年5月10日)によると、新入生は第一部、第二部で約1500人。福岡県瀬高町(現在はみやま市)出身の藤丸勝義さんも、九州大学で行われた地方入試を受けて第一法商学部法学科に入学しました。

瀬高町は田中壽一氏の出身地である柳川市の隣町。「高校の先生たちだけなく、近所の人たちや先輩からも名城受験を勧められました。受験会場には30人近くが集まり、桜木俊一先生が面接に来られました」と藤丸さんは、地元での田中氏の人気ぶりを振り返ります。

「名城大学新聞」によると入学式では川西正鑑法商学部長、柴山昇短期大学部長や来賓、在学生代表である駒方学生会の会長のあいさつがありました。記事は「柴山教授のユーモアふんだんなあいさつなど、会場の空気を和らげる場面もあり、早くも新入生の元気な笑顔が見られた」と紹介しています。野村総長事務取扱の名前は見当たりませんが「希望にあふれる諸君をお迎えして盛大なる入学式を挙行し得てことは私のみならず、本学の大きな喜びであり、衷心よりお祝いの言葉を申し上げます」などの「総長訓示要旨」も掲載されています。

復権行動と泥沼化

半年以上に及ぶ総長不在が続く中、駒方校舎講堂では6月3日、薬学部が駒方校舎に移って最初の学生大会が開催されました。法商、薬学部と短大(商経)の学生約1200人が参加し、5時間半に及ぶ討論の末、「田中壽一前総長復帰絶対禁止」の条件付きで総長の早期就任を求める要望書を理事会に送ることが決議されました。田中前総長の復帰工作が伝えられていたためです。

  • 法廷闘争への突入を伝える「名城大学新聞」(1955年9月22日)
  • 法廷闘争への突入を伝える「名城大学新聞」(1955年9月22日)

こうした中、田中氏は8月20日、実力行使に出ます。『名城大学75年史』によると田中氏は、今岡理事長事務取扱、野村総長事務取扱らの辞表提出を理由に、「昨年末の事件以来、学園の運営を理事会にお願いしていたが、いろんな事情から理事・監事が辞表を届けられて驚いている。学園の運営は1日もほうっておけないので、今日から再び理事長・総長として執務する」と宣言して大学本部の総長室に入ったのです。

田中氏を認めない理事会では9月15日、総長に法商学部長の大串兎代夫(とよお)教授を選任することを決定。9月28日の理事会では理工学部長である伊藤萬太郎教授の理事長選任を決定し、10月1日、これらの登記を完了します。しかし、これを認めない田中氏側は、名古屋地方裁判所に理事長職務執行停止の仮処分を申請。名古屋地裁は伊藤理事長の職務執行停止を命じるとともに、広濱嘉雄弁護士を理事長職務代行者に任命しました。名城大学は裁判所管理下に置かれる形となり、紛争はいよいよ泥沼化していきました。

大串教授の総長就任

  • 大串兎代夫総長
  • 大串兎代夫総長

総長に就任した大串教授は東京帝大法学部卒の憲法学者ですが、戦時中、文部省が思想統制のために設置した国民精神文化研究所に籍を置き、民族精神を鼓舞する著作を相次いで発表していたことで、戦後、レッドパージを受けました。1951年にパージを解除され、1953年から名城大学教授となり、1955年6月には法商学部長に就任していました。53歳での総長就任でした。

9月22日「名城大学新聞」で大串総長は、「学園紛争と言われた本学の問題について、学生が不満に思ったり、不愉快なことだというように簡単にこのことを片付けないで、本学が発展するうえでの一つの課題として考えたい」「我々がこぞって今こそなさなければならないことは本学が周囲の人々に愛されることである。そのためにまず、学校の立地している付近の町村から好意をもって見られ、信頼され、愛される本学となるよう万全の努力を払わなければない」と語っています。

  • 1955年入学当時の思い出を語る藤丸さん(岐阜県各務原市の自宅で)
  • 1955年入学当時の思い出を語る藤丸さん(岐阜県各務原市の自宅で)

1年生だった藤丸さんは、この当時の大串総長について「和服姿のおとなしい先生」という以上の印象はありませんでした。しかし、3年生の時には雄弁会幹事長だったため、1957年11月に、名古屋の中日会館で開催された「第10回全国高等学校弁論大会」では大串総長に大会会長を務めてもらいました。大会が名城大学主催で、大串総長は雄弁会の顧問でもあったからです。この大会プログラムに掲載された「挨拶」で、大串総長は「正義は力である。これをもって起つとき、われわれは勇気に満ち、何ものも恐れない。正義の信念を持って語る時、言々句々すべてこれ雄弁となる――」と述べています。

伊藤萬太郎教授の理事長就任

  • 伊藤萬太郎理事長
  • 伊藤萬太郎理事長

理事長に選ばれた理工学部長の伊藤萬太郎教授(熱力学・内燃機関)は、名古屋高等理工科学校時代には機械科長を務め、実験室、実習室を毎日見て回る日々を送っていました。伊藤教授から理工学部長をバトンタッチし、後に学長も務めた小澤久之亟教授は、伊藤教授の理事長就任当時の思い出を「名城大学機械会誌」第6号(1972年6月)に書いています。

伊藤教授は理工学部長時代、田中理事長に、試験用紙を買ってほしいと求めたことがありましたが、聞き入れられませでした。清廉潔癖な伊藤教授は、「理工学部長でありながら紙一つ買えないのですよ」と嘆いていたと言います。1953年ごろから大学紛争が始まり、全学が揺れ始めました。小澤教授は「今こそ大学全体が先生を必要としている時期ですから、理工学部は私どもに任せて、本部に行かれて大学を平静にしていただきたい」と伊藤教授に要請しました。しかし、伊藤教授は「自分はあくまで理工学部長として大学に尽くすつもりでいるから、そんなことはできない」と断り、小澤教授は困ってしまったといいます。小澤教授は「結局、終わりには本部に出られるようになり、昭和30年には理事長にもなられたのですが、(名古屋地裁から理事長の職務執行停止を命じられ)もう手遅れでした」と記しています。

母校のためなら命まで

暗く、長い紛争のトンネルに入り込もうとしていた名城大学。宮司さんの友人たちの中からは1人、2人と他大学に転校していく学生たちも出てきました。「紛争から手を引かなければ殺す」と深夜、刃物を持って下宿、アパートに押し入る田中理事長支持派の学生も出没したといいます。教授時代から袴姿だった大串総長。おんぼろ校舎。母校のためなら命までと殺気立つ学生。空手部に籍を置き、応援団副団長だった宮司さんと、応援団長だった佐竹秋彦さん(1956年商学科卒、故人)が、鬼頭弘幸さん(1956年法学科卒、故人)の弾く、調律不備のピアノに合わせてラバウル小唄を原曲にした「名城節」の歌詞を作りあげたのは1954年秋でした。歩いて行きます紋付はかま、ぼろは俺等の旗印、母校のためなら命まで――。歌詞は当時の名城大学の情景と重なりました。

鬼頭さんは三重県熊野市出身。和歌山県に越境して旧制新宮中学(現在の新宮高校)に通いましたが、15歳で応召。終戦で帰ってきて熊野で3年ほど小学校の代用教員をしました。「その体験でピアノも弾けたのでしょう」と家族は語ります。その後、鬼頭さんは、名古屋に出て名城大学に入学。卒業後はトヨタ自動車の下請けの会社で働きました。「学生時代の話はいつも楽しそうに話していました。よほど素晴らしい友人たちに恵まれたのでしょうね」。16年前に亡くなった鬼頭さんについて突然だった電話にもかかわらず、家族は懐かしそうに語ってくれました。

第3・4代応援団長の佐竹秋彦さん(應援團60周年誌より)

第3・4代応援団長の佐竹秋彦さん(應援團60周年誌より)

名城節を踊る宮司さん(應援團60周年誌より)

名城節を踊る宮司さん(應援團60周年誌より)

名城節も収められた「名城大学歌集」(1995年4月)

名城節も収められた「名城大学歌集」(1995年4月)

自分の子供のような名城

  • 名城節を語る宮司さん(浜松市の自宅で)
  • 名城節を語る宮司さん(浜松市の自宅で)

「学生たちの心はすさんでいる。暗くなりがちな大学の空気を少しでも明るくしたい」。そんな宮司さんらの思いから生まれた名城節。名古屋のシンボルマークである「マルハチ」を両手と腰で表す踊りも完成させました。宮司さんたちは、駒方校舎の正面中庭で毎日踊り続けました。学内だけでなく、栄のオリエンタル中村(現在の三越百貨店)や広小路通など名古屋の街中でも名城節を歌い、踊り、闊歩し続けました。

2013年3月19日、卒業して半世紀以上になる名城大学卒業生たちの集い「スペシャルホームカミングデイ」の締めくくりで、宮司さんは万感の思いで200人近い参加者を前に名城節を踊りました。「遊び過ぎて卒業も危うくなるほどバカをやった男ですが、名城節をやれと言われて浜松から飛んできました」とあいさつした宮司さん。

卒業後は、応援団部長だった芦屋大学の福山重一学長を、理事長代行的な立場で支えました。浜松市の自宅に宮司さんを訪ね、スペシャルホームカミングデイで名城節を踊った時の思いを聞いてみました。「誰の名城でもない。まさしく俺の名城なんだと思いました。名城は自分の子供なんだと。紛争当時の田中先生みたいなものですね」。宮司さんの口からさりげなく、そして愛おしそうに「田中先生」の言葉が出ました。

(広報専門員 中村康生)

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