特設サイト第3部 第3回 神宮球場へ
野球部OBとの出会い
名城大学硬式野球部(以下野球部)が1953(昭和28)年春の愛知6大学野球リーグ戦で初優勝し、東京の明治神宮野球場(神宮球場)で開催された全日本大学野球選手権大会に初出場したという話を聞いたのは、3月19日に開催された「スペシャルホームカミングデイ」の時でした。昨年に引き続き開催された今年のスペシャルホームカミングデイの招待対象となったのは1959(昭和34)年3月から1963(同38)年までに卒業した4946人。住所登録のある1899人に案内状が送られ、北海道から九州までの203人が参加しました。73~77歳を中心にした参加者たちは愛知県体育館での卒業式を2階席から見守り、若い卒業生たちとともに懐かしい学歌を斉唱。5台のバスに分乗して名古屋観光ホテル3階「那古の間」で開催された懇親交流会に臨みました。
名城大学野球部の草創期の歴史を語ってくれたのは1963年3月に法商学部商学科を卒業した野球部OBの金田辰男さん(73)(愛知県春日井市)です。名古屋観光ホテルに向かうバスで金田さんの隣に座らせていただいたのがきっかけでした。金田さんの野球部時代の監督が、名城大学野球部が初めて神宮球場に乗り込んだ時の1年生エースで、1957(昭和32)年法商学部卒の林敬一郎さん(79)だったこともあったようです。
林さんは初の名城大学野球部OB監督として、金田さんが入学した年に就任し、4年間采配を振るいました。「名城大学野球部が初めて全国舞台に登場した話をぜひ『名城大学物語』で紹介してほしい」。ウェブ連載「名城大学物語」を最初から読んでいるという金田さんは熱く語りました。金田さんとともに、岐阜県土岐市の林さん宅を訪れたのは3日後の3月22日でした。
愛知6大学野球リーグ初優勝
林さんは岐阜県立多治見工業高校出身。当時の多治見工高は岐阜県下の高校球界では強豪校でした。エースだった林さんの1年後輩には、同じ左腕投手で、阪急ブレーブスに入団、リーグ最多となる327奪三振を記録するなど活躍した梶本隆夫(1935~2006)がいました。林さんが3年生だった1952(昭和27)年、甲子園を目指した岐阜県大会では、体調を崩した林さんに代わって準決勝から登板した梶本の力投で多治見工高が優勝。ただ、当時の甲子園出場には三重県代表との三岐大会の関門があり、残念ながら林さんたちの甲子園出場の夢はかないませんでした。しかし、多治見工高は1958(昭和33)年、春夏の甲子園出場を果たします。けん引したのは後に中日ドラゴンズで主力投手として活躍した河村保彦(1940~2012)でした。
愛知大学野球連盟は1949(昭和24)年10月11日、愛知大学7大学野球連盟として発足し、1953年に愛知大学野球連盟に改称しました。1950年から春・秋リーグ戦が始まりました。林さんが入部した1953年当時の名城大学野球部には監督はいませんでした。チームを引っ張ったのはキャプテンの加藤義彦さん(1956年法商学部卒)、マネジャーの中世古(旧姓平野)幸夫さん(同)ら先輩たちでした。林さんは1年生ながらエースとして、春のリーグ戦のマウンドに立ち、南山大、学芸大(現在の愛知教育大)、愛知大、名古屋大、名古屋市立大を下しリーグ戦初優勝に輝きました。
一方、1952年には東京6大学、関西6大学、東都大学、東北・北海道、関東、東海、近畿・中国・四国、九州の8連盟を統合し、全日本大学野球連盟の組織が結成されました。同年8月、全国8連盟の代表による第1回全日本大学野球選手権大会が神宮野球場において開催され、学生野球日本一を目指す舞台となりました。1953年春の愛知6大学リーグを制した名城大学も第2回全日本大学野球選手権大会に出場することになったのです。
「栄冠我にあり」
愛知6大学野球春季リーグ戦で名城大が南山大を5-0で下しての初優勝を紹介した「名城大学新聞」(1953年7月3日)の記事(要旨)です。
愛知6大学野球春季リーグ戦最終日は6月30日午後4時、八事球場で開かれた。優勝を賭けた戦だけに両校応援団は闘魂を選手とともに燃え上がらせ、八事の山は興奮のルツボと化した。前半互いに均衡を保っていたものの、後半に強い名城は好投好打の林が5回に至って出塁し、後継打者松下の二塁打などで3点を先取、さらに6回1点、9回ダメ押しの1点を追加した。これに対し南山は林投手に完全に封じられ、三塁ベースを踏んだものただ一人という貧攻ぶりを呈した。
紙面には「部長談」として、野球部長だった法商学部の池田禎作教授(商業英語)の談話記事もあります。池田部長は初優勝について「学長ならびに学校教職員、全学生の応援のたまものである。七千の学生が一団となり、応援に努めたことは偉大なるものであった」と述べています。
池田部長は、さらに一人の3年生野球部員の行動を称賛しています。「試合開始30分前、商科3年原田選手は水害のため一家4名死すの報を受け、出場不可能となったが、彼は責任を持って優勝への機運を高めるために出場メンバーを揃え、『栄冠我にあり』の弁を残して郷里へと走った。励ましたい彼こそ本当のスポーツマンである」。
池田部長が称えた「原田選手」とは、1955年法商学部卒の原田嘉幸さん(82)(愛知県大治町)です。原田さんのもとには試合当日、北九州を襲った台風による水害で、弟1人、妹2人と祖母が亡くなったとの電報が届いていました。原田さんは試合途中から池田部長が手配した車で駅に向かい、福岡県門司市(現在の北九州市門司区)の実家に向かいました。
名城大学を卒業後、名古屋大学に職員として勤務した原田さんは「そういうこともありました。池田さんは田中壽一理事長とも仲がよく威勢がよかった。神宮をめざしてノンプロから選手を引っ張ってきて入学させるなど、かなり強引なこともやった。当時は明確なアマチュア野球規定もなく、他大学の野球部員を引き抜くなど、今なら考えられないようなことがあちこちで横行していましたよ」と語ってくれました。
「最後の早慶戦」体験した森監督
愛知6大学野球リーグで優勝した名城大学は8月22日にから神宮球場で始まる第2回全日本大学野球選手権大会に向けて、ノンプロの川島紡績(現在のカワボウ)のキャプテンだった森武雄さんを招きます。川島紡績野球部は、森さんと同じ愛知県一宮市出身で、毎日オリオンズに入団、選手時代は「打撃の職人」と言われ、中日ドラゴンズ監督も務めた山内一弘(1932~2009)も在籍していたチームです。
森さんは戦前の岐阜商業(現在の県立岐阜商業高校)が1936(昭和11)年に夏の甲子園で初優勝に輝いた時のベンチ入りメンバーです。早稲田大学に進み、1943(昭和18)年10月16日、学徒出陣を前に、早稲田大学と慶応大学の野球部が実現させ、映画にもなった「最後の早慶戦」には1番二塁手で出場しました。
戦局が厳しくなる中、“敵国スポーツ”である野球はうとまれ、1943年4月には東京6大学野球連盟は解散に追い込まれました。同年10月2日には学生への徴兵猶予停止が公布され、同25日からは臨時徴兵検査が始まり、文系学生が入営・入団することになったのです。
「最後の早慶戦」は、東京6大学野球連盟の公式試合ではなく、両校野球部の対校試合として実施が許され、実際には「早慶壮行野球試合」の名のもとに早稲田大学野球部の練習場である戸塚球場で行われました。大戦による両校関係の戦没者は、早稲田が4700人以上、慶応が2200人以上に及びましたが、「最後の早慶戦」でユニフォームを着た両校選手でも早稲田大学の5人が戦死しました。
日記「学徒出陣」
商学部3年生だった森さんは日記『学徒出陣』を書き残していました。入営を前に、家族や友人らとの別れが現実になった1943年10月1日から28日に書かれたものです。「最後の早慶戦」に参加した、戦地での死をも意識した当事者の数少ない記録です。2005年に森さんから早稲田大学大学史資料センターに寄贈されましたが、同センターでは、日記が緊迫した情勢と心情のもとに書きつづられており、活字では行間が伝わらないとして原文を写真撮影し冊子(『早稲田大学史紀要』第38巻抜粋)としてまとめました。
森さんは日記を「来るものが来たといふ感じ」と書き始めています。
来るものが来たという感じ。かねて覚悟してゐた秋が来たのであって、あへて驚きはしない。でもいざ決まってみると口ではえらそうなことを言っていても、あれやこれやと、征く日までにやっておきたい事で一杯で、何となく落ち着けないものだ。この世に生を受けて廿有余年、今かうして静かにふりかへってみると長い様でも短い気もする。万感迫って感慨無量。
「最後の早慶戦」は10対1の大差で早稲田が勝ちました。慶応には帰省先から急きょ呼び戻された学生が多く、早稲田との練習量の差が歴然と現れました。試合終了後、両校が相手校歌を歌い終えた後、「海ゆかば」の大合唱がグラウンドを包み込ました。選手たちも観客も知らず知らずに泣いていました。
森さんのこの日の日記は、「十月十六日晴 絶好の野球日和」の1行だけでした。しかし、早稲田大学野球部内やOBとの送別試合があった翌17日の日記後半には、野球と別れることになる寂しが記されていました。
今日で俺の野球生活も本当に終わってしまった。もう二度と再び戸塚のグラウンドで球を手にすることはないかも知れない。十何年もの長い間、小学校時代から大学に到る迄、苦楽を共にして来た野球とも愈々(いよいよ)今日限り。一寸淋しい。
森さんは満州に出征し、関東軍の主計(経理)将校になり、終戦後はシベリアで2年間の抑留生活を送りました。帰国後は川崎紡績で選手、監督として活躍。引退後は岐阜カンツリー倶楽部支配人などを務めました。
早稲田スタイルに
名城大学野球部監督に就任した森さんは野球部に早稲田スタイルを持ち込みました。早稲田大学と同じ白のユニフォームに、白帽子、早稲田のスクールカラーでもある臙脂(えんじ)のアンダーシャツ。胸の「MEIJO」の字体も早稲田の字体に合わせました。初めて全国舞台に立ち向かう名城の選手たちに、勇気と誇りを持たせようようという森監督の配慮だったのかも知れません。
林さんは、「ストッキングも早稲田に合わせた気がする。アンダーシャツの臙脂はその後、名城大学野球部のカラーだけではなく、名城大学のスクールカラーとしても定着していきました」と語ります。
林さんと同級生で、野球部マネージャーを務めた柴田守さん(78)(名古屋市千種区)は森監督について、「怒らない方で、選手の悪口は絶対に言わない人だった。神宮出身の名選手でもあった森監督のもとで、我々選手たちは落ち着き、堂々と神宮という大舞台に臨むことができたのだと思います。監督在任期間はわずかでしたが、名城大学の歴代監督ではまさに伝説的な存在でした」と振り返ります。
神宮球場に駆けつけた応援団
第2回全日本大学野球選手権大会に出場したのは西南学院、東北学院、立教、神奈川、岡山、中央、近畿、関西学院、名城の9校。名城は1回戦で関西学院大と対戦し、エース林が関学打線に打ち込まれ、5-0で敗退しましたが、名城大学応援席は駆け付けた学生、教職員で埋まりました。2年生だった応援団の宮司正幸さん(1956年法商学部卒)も応援団旗を掲げて応援しました。宮司さんによると、応援団だけでなく、ラグビー部、バレー部、陸上競技部員たちも床に新聞紙を敷いた列車に揺られて上京しました。応援団にとっては、神宮球場での体験は、東京や関西の応援団の応援スタイルを間近くに見ることができる新鮮で貴重な体験でした。マネジャーの柴田さんが撮影した応援席には後の総長に就任することになる法商学部の大串兎代夫教授の姿も見えます。柴田さんは、こうした神宮出場を果たした野球部の写真を集めた写真集『名城大学硬式野球部 おもいで 1953年~1957年』をごく限られた部数ですが、自費出版しています。
連盟理事からの手紙
名城大学野球部の池田部長が「名城大学新聞」(1953年10月1日)に「野球道」という文章を寄稿していました。その中で池田部長は、神宮で敗退した名城大学野球部に、全国大学野球連盟理事の伊丹安広さん(1904年~1977)から寄せられた選手たちの健闘をたたえる手紙を紹介しています。
伊丹さんは大正期から早稲田大学の捕手として活躍。1926年春季リーグでは首位打者を獲得しています。社会人野球をへて1940年から母校野球部の監督になり、森さんが早稲田野球部で2年生の時まで采配を振るいました。「最後の早慶戦」では、監督は離れたものの野球部顧問として、森さんたちを見送りました。
伊丹さんは「彼らが戦場に赴くとき、私は腹の底から、生きて帰れよ、死ぬなよと叫んだのを覚えている」と自著『一球無二 わが人生の神宮球場』(ベースボール・マガジン社)で、部員たちの無事生還を祈り続けた思いをつづっていました。戦後は日本学生野球協会の結成に関わり、アメリカ軍によって接収された神宮球場の返還にも奔走し、明治神宮外苑長を務めています。名城大学の選手たちを率いて神宮に帰ってきた森さんとの再会は、伊丹さんには格別の思いがあったに違いありません。
森さん逝く
「最後の早慶戦出場 森武雄さん死去」の死亡記事が中日新聞に掲載されたのは2011年2月4日でした。
戦前の岐阜商業(現県立岐阜商業)から早大に進み、「最後の早慶戦」に出場した森武雄(もり・たけお)さんが1月30日、急性心不全のため愛知県一宮市の病院で死去していたことが分かった。90歳。一宮市出身。自宅は一宮市。葬儀・告別式は近親者で済ませた。喪主は妻の美代子(みよこ)さん。
美代子さん(86)は、森さんと名城大学との関わりを語ってくれました。名古屋の大須生まれの美代子さんはか数え年で22歳のとき29歳の森さんと結婚しました。「私は野球のことは全く知りませんでしたが、主人は野球のことはよく話してくれました。結婚した時は川島紡績にいましたが、数年後、名城大学の監督もやることになったと言っていました。私は名古屋出身で名城大学は知っていたのでよく覚えています。東京の神宮球場に行ったときはうれしそうでした。その後は母校の岐阜商の監督もしました。野球が本当に大好きだった人でした」。
卒業後も森さんとの親交が続いた柴田さんは、森さんがなくなる数年前に一緒にゴルフをしました。「森さんは、その時も、最近の野球部はどんな具合ですかと、名城大学野球部のことを気にかけていてくれました。ありがたかったです」。柴田さんら名城大学野球部が森さんに率いられて神宮のグラウンドに立った日からすでに60年の歳月が流れました。
(広報専門員 中村康生)