特設サイト第3部 第11回 創設者の死を超えて

  • 理工学部で開催された「創設者死去に関する全学集会」(1960年11月17日「中部日本新聞」夕刊より)
    大学発祥の地である、理工学部で開催された「創設者死去に関する全学集会」(1960年11月17日「中部日本新聞」夕刊より)

「大学解散」の危機の中で

  • 「解散の危機」を報じた「読売新聞」(1960年5月19日)
  • 「解散の危機」を報じた「読売新聞」(1960年5月19日)
  • 駒方校舎の掲示に見入る学生たち(1960年5月27日「毎日新聞」より)
  • 駒方校舎の掲示に見入る学生たち(1960年5月27日「毎日新聞」より)
  • 1960年4月に入学した遠藤さん(2011年8月、宮城県女川町役場で
  • 1960年4月に入学した遠藤さん(2011年8月、宮城県女川町役場で

国会の衆参文教委員会に持ち込まれた名城大学問題で、文部省は1960年1月、私立大学審議会会長で日本大学会頭の古田重二良(じゅうじろう)、法政大学常務理事の友岡久雄、日本医科大学理事長の河野勝斎(かつただ)(いずれも私大審議会特別委員)の3氏に調停を委嘱しました。
3氏は、名城大学側に役員総退陣など3回の勧告を行いましたが、理事会は分裂状態で、「読売新聞」(5月19日)によると、名古屋地裁には1960年に入ってから7件もの仮処分申請、訴訟申請が持ち込まれている状態でした。大橋光雄理事長、日比野信一学長からの「役員の総退陣はできない」との回答を受けた3氏はそれ以上の権限はないため調停を打ち切りました。3氏は5月18日、松田竹千代文部大臣に「これ以上の放置は社会的に実害があり、役員の解職勧告または学校の解散を命じることも考えるべきである」との報告書を提出。1954年以来7年越しでなお出口が見えない名城大学紛争は、学生たちの将来をも左右しかねない社会問題の様相を深めていきました。

「解散の危機に立つ名城大学」(読売新聞)、「名城大学はどうなる?」(毎日新聞)。新聞も連日、名城大学問題を報じました。1960年5月27日「毎日新聞」は、名城大学の学生たちの不安を追っています。2011年の東日本大震災で町中心部が壊滅的な被害を受けた宮城県女川町の教育長で災害対策副本部長だった遠藤定治さん(1964年法商学部商学科卒)も取材を受けていました。名城大学に入学して間もない遠藤さんは、学生会のパンフレットや学生新聞などを通して、紛争の経過を初めて知りましたが、今後、大学がどうなっていくのか、実感として受け止めることができないでいました。
「1時間、2時間後に大学がどうなるのか。その見通しがさっぱり分からない。これがあせりともどかしさに変わる。それをぐっと抑えながら勉強している。勉強のほかにエネルギーを注ぎこむものがないから」。名古屋では知り合いも少なく2年生まで駒方寮にいた遠藤さん。記事では「宮城県石巻高校出身の法商学部1年生」として登場していました。 記事は学生たちが食い入るように見つめる駒方校舎掲示板についても写真とともに触れています。
「会告。紛争は最終段階を迎えた。従来どおり新聞を出すと時間的にニュースが死んでしまうので、刻々の動きを号外で知らせる。名城大学新聞会」「第二法商学部商学科は市民にアピールするためのデモを決議」「学生代表は上京して中央の動きを集める」「教授会、教職員組合、学生でつくった審議会を開く」。

全国の私大に緊張走る

  • 古田重二良氏
  • 古田重二良氏
  • 友岡久雄氏
  • 友岡久雄氏

名城大学の紛争を契機に、私立学校法(私学法)の改正が現実味を帯びて論じられるようになりました。文部省の『学制百年史』は、1949年に制定された私学法について、「私学の自主的運営と公共性の保障を図るため、所轄庁の権限を大幅に制限し、その適正な運営を理事者等関係者の良識にゆだねる建て前としたが、その後、現実に、学校法人に紛争が生じ、学校の運営上、教育上憂慮すべき事例が起こった。特に、学校法人名城大学の紛争は、昭和29年以来長期にわたる深刻かつ複雑なもので、自主的な解決の見通しもなく、かつ法律的には第三者の関与の余地もない実情であった」と記しています。
この名城大学紛争に対し、文部大臣の諮問機関として「学校法人運営調査会」が発足、1960年10月15日には、所轄庁(大学は文部大臣、高校以下は都道府県知事)に学校法人解散権を与えるなどの私学紛争処理について答申しました。①紛争解決のための調停機関を新設する②学校法人の解散に関する制度を整備すること――を骨子とするものでした。「最悪の場合には学校法人が解散命令を受けることになる」。全国の私大に緊張が走りました。
「朝日新聞」(1960年10月16日)は「私学紛争の解決策で答申」という記事で、調査会会長である古田日大会頭と、名城大学が加盟する日本私立大学協会の矢次保事務局長の見解を掲載しています。古田氏は「学校紛争はもちろん自主解決が望ましいが、名城大のケースをみると、このような改正はやむを得ない」と明言しています。矢次氏は「名城大のような例外にとらわれて、私学の自主性を脅かす措置がとられれば断固反対する」と反発しました。

  • 「学校法人運営調査会」の答申を特集した「法政大学新聞」(1960年10月25日)
  • 「学校法人運営調査会」の答申を特集した「法政大学新聞」(1960年10月25日)

東京の私大の学生新聞も敏感に反応しました。旬刊(10日おき発行)だった「法政大学新聞」(10月25日)は「私学にのびる国家権力」の見出しで答申の全文とともに特集記事を掲載。きっかけとなった名城大学紛争の経緯や、調停役だった友岡理事の見解も紹介しています。友岡理事は、「答申案は名城大学の紛争をきっかけに出来たもので、名城大学の理事が二派に分かれ主導権を相争い、その間、学校教育活動が麻痺状態に陥っても反省しようとしなかったことがこれである」「今の私立学校法の甘さを悪用して、教育を無視するような学校法人役員間の紛争は、今の私学法だけでは解決できない」と述べています。

創設者の死

名城大学紛争が全国的にも注目を集める事件に発展して行く中、渦中にあった創設者の田中壽一氏が亡くなったのはこの年、1960年11月11日でした。各メディアがその訃報を伝える中、「毎日新聞」(11月12日)は創設者の寂しい晩年の様子も伝えました。

東海地方でただ一つの私立総合大学名城大学(名古屋市昭和区駒方町)の創立者、田中寿一理事は別項のように11日午後、「加藤善之助」と仮名の表札のかかった名古屋大学付属病院新病舎6階の病室で息を引き取った。7年間続いた名城大学の学内紛争で、終始自説を強硬に主張し続け、ついにはコト夫人と3人の令息からも「父に従えず」と背かれ、全く孤独になったが、その高姿勢は少しも崩さなかった。しかし、その田中さんは仮名のまま死ななければならなかった。”ワンマン理事長”といわれた人の最期としてはあまりにもわびしいものがあった。
文部省は今年2月、私大審議会長・古田重二良氏ら3人の調停委員を委嘱、名城大学の紛争を調査、その結果、田中さんら責任者の辞職を勧告したが、田中さんは「名城大学は私のつくった学校だから私のものだ」と強く主張して応じなかった。この主張は一貫して変わらぬ田中さんの“信念”だった。このため文部省では、名城大学のような学内紛争が他の私学で起こった場合、現行の私学法では法的に取り締まることはできないので、同法の改正を考えるにいたった。
田中さんは今年6月、退陣を迫る同大学学生約2000人に昭和区五軒家町の自宅を取り囲まれ、裏口から逃げだした。それ以来、自宅に帰らず、名古屋市内の旅館や知人宅を転々としていた。(要旨)

  • 「毎日新聞」の訃報記事(1960年11月12日)
  • 「毎日新聞」の訃報記事(1960年11月12日)

田中寿一氏(元名城大学理事長・総長) 肝硬変のため名古屋大学付属病院に入院中、11日午後4時15分、脳出血で死亡。74歳。16日名古屋市昭和区五軒家町31の自宅で密葬、大学で21日学園葬。福岡県柳川市生まれ。東北大物理科卒、同大助教授、浜松高工教授を経て、大正15年名古屋高等理工科講習所設立、昭和24年名城大学を創設、法商、理工、薬学、農学、短大部、大学院を持つ東海地方ただ一つの私立総合大学をつくりあげた。

再建誓う全学追悼集会

  • 追悼集会で決議文を朗読した八田さん(石川県小松市で)
  • 追悼集会で決議文を朗読した八田さん(石川県小松市で)

「名城大学創設の地でもある中村区新富町の理工学部グラウンドでは11月17日、全学学生会協議会主催の「創設者死去に関する全学集会」が開かれ、約2000人の学生たちが田中氏の死を悼みました。坂本一議長(第二法商学部4年)は「我々はいろんな点で田中先生を非難もし、戦ってきたが、今は全学生が心から哀悼の意を表したい。田中先生の霊を慰める最善の道は、この大学を立派に再建することだ。そのために、今までの方針を変えることなく頑張ろう」とあいさつ。日比野学長らのあいさつに続き、副議長の八田幹也さん(第一法商学部4年)の「今までの戦いを超えて創設者の死を悼み、創設の志にそうため、名城大学を再建させよう」という決議文朗読で集会を締めくくりました。
「私も田中さんの自宅前に座り込んだし、消息不明となった田中さんがいるらしいとの噂を聞いて、運転できる学生の車で長野県まで探しに行ったこともあった。しかし、訃報に接した時は、死者を責めるようなことはやめようと誰もが思った」。自宅のある石川県小松市で八田さんは54年前の追悼集会の様子を語りました。

紛争に疲れていた学生らには安ど感も生まれました。薬学部学生会長だった東京都練馬区の柏瀬明弘さん(1962年卒)は、「亡くなった時は正直言ってホッとした感じだった」と振り返ります。卒業後は製薬会社に勤務し、転勤で全国を歩いたという柏瀬さんは、「何と言っても田中さんによって学生たちは散々な目にあったのは事実。特に開設間もない薬学部の学生たちは校舎の不備などで、親たちの奔走を得て、独力で勉強できる環境を整えざるを得なかったという苦い思いがありましたから」と語ります。
柏瀬さんは学生時代、一度だけ田中氏と言葉を交わしたことがありました。各学部の学生会役員たち4、5人で田中氏宅を訪れ、応接間に通された時の思い出です。「物理学者でもある田中さんは、学生たちを諭すように、“学生はまず勉強しなければならない。エントロピー(物理学の分野で不確定性、乱雑さ、無秩序の度合)という言葉を知っているか”と私たちを見渡しながら問いました。私はたまたま知っていたので答えたところ、田中さんは一瞬、驚いたような顔をされました」。

  • 学校葬を伝えた「名城大学新聞」(1960年12月15日)
  • 学校葬を伝えた「名城大学新聞」(1960年12月15日)

学校葬は11月21日、中区の東本願寺別院で営まれました。コト夫人や長男卓郎氏らの身内のほか、名古屋地裁から理事長職務代行者に指名されていた弁護士の浦部全徳氏、日比野学長ら名城大学関係者、他大学関係者が参列しました。「名城大学新聞」(12月10日)は学校葬が執り行われたことを題字のある1面左下の記事で紹介しました。「学問一徹の幕を閉ず」の見出しで、記事では学生たちが参加しなかったことで学生会の行動を強く批判しています。トップ記事は学校葬翌日の11月22日から9日間、前年が伊勢湾台風によって中止となったため2年ぶりに開催された大学祭の記事でした。

時限立法で紛争終結へ

  • 時限立法の成立を伝える「毎日新聞」(1962年3月23日)
  • 時限立法の成立を伝える「毎日新聞」(1962年3月23日)

創設者の死が紛争解決の糸口になるのではないか。名城大学の関係者の多くは願いました。しかし、泥沼に陥っていた紛争の解決へはさらに2年近い歳月を要しました。学校法人運営調査会から出された、所轄庁の解散権を盛り込んだ答申に対する私学側の反発も予想以上に強いものでした。
こうした事態打開のため、私学法改正ではなく、学校法人の紛争解決を円満に進める法的措置として、紛争調停のための単独立法の動きが急展開していきます。愛知県の桑原幹根知事、名古屋市の杉戸清市長、名古屋商工会議所の佐々部晩穂(くれお)会頭から「法案成立後は名城大学紛争後の解決に全面協力する用意がある」との表明もあり、国会の大勢は議員提案による法案提出の方向へと固まっていきます。
長かった名城大学紛争に終止符を打つことになる「学校法人紛争の調停等に関する法律」案は衆院、参院の文教委員会の可決を経て衆、参の各院本会議可決され成立しました。1962年4月4日、「法律第70号」として公布され、5月1日から2年間の時限法(1964年4月30日失効)として施行されました。1959年10月、名城大学の大学協議会、教職員組合、全学生会協議会、校友会の4者が国会に国政調査権の発動を要請して以来、2年6か月という長い年月を経ての施行であり、一大学のみの問題解決のための、前例のない単独立法でした。

誇りを取り戻したい

  • 美濃部氏を講師に迎えた講演会。前列着席者の中央が柴山昇短期大学部長、左が美濃部氏、(1人おいて)伊藤さん(学生服)
  • 美濃部氏を講師に迎えた講演会。前列着席者の中央が柴山昇短期大学部長、左が美濃部氏、(1人おいて)伊藤さん(学生服)

「学校法人紛争の調停等に関する法律」の文部省案が自民党文教部会で承認され、成立へ大きく前進した1962年2月27日、名古屋駅前の豊田ホールでは名城大学第二法商学部商科中村学生会主催の「講演の夕べ」が開かれました。講師は後に東京都知事となる東京教育大学(現在の筑波大学)の美濃部(みのべ)亮吉教授。美濃部氏は当時、NHK教育テレビで日曜日夜に放送されていた「やさしい経済教室」に出演する人気経済学者でした。「美濃部一家」のお父さん役として出演した美濃部氏は、物価の上昇問題、世界と日本経済の関係などをわかりやすく解説。今でいうなら人気ジャーナリストの池上彰さんのような存在でした。「講演の夕べ」で美濃部氏は、「日本経済の課題」をテーマに語り、満員の聴衆をわかせました。
美濃部氏を講師に招き、この日の「講演の夕べ」を実現させたのは第二商科中村学生会会長だった伊藤由貴夫さん(1963年第二法商学部商学科卒、1965年大学院商学研究科修了)です。新聞だけでなく週刊誌でも「これぞ地上最低の大学」などと気のめいるような取り上げ方が続いた名城大学の紛争。中村学生会主催の「講演の夕べ」も開催が中断していました。
「名城大学の学生たちの誇りを取り戻すため、何としても著名人を講師に招き、講演会を復活させたかった」。3年生だった伊藤さんは美濃部氏に、名城大学が置かれている困難な状況の説明も含めて、毛筆で講演依頼の巻手紙を出しました。そのうえで、2年生だった柳原省蔵さんとともに上京し、美濃部氏宅を訪れました。恐る恐る、依頼への返事を求めた2人に、美濃部氏は「お手紙を読みました。お引き受けしましょう」と、ブラウン管でも人気の“美濃部スマイル”で快諾してくれました。

自力で学び続けた6年

  • 「講演の夕べ」開催の思い出を語る伊藤さん(愛知県春日井市の自宅で)
  • 「講演の夕べ」開催の思い出を語る伊藤さん(愛知県春日井市の自宅で)

伊藤さんの名城大学での学生時代は6年間に及びました。三重県亀山市の夜間定時制高校を卒業。働きながら学ぶ夜間の短大として、津市の三重短大か名城大学短期大学部のどちらかに行こうか迷っていた時、担任は「いくら県庁所在地といっても津は田舎。田舎から田舎に行くよりは都会の名古屋の空気に触れながら勉強しては」という勧めもあり、1959年、中村校舎にあった夜間の短期大学部に進学しました。
国鉄亀山駅に勤務しながらの通学でした。伊勢湾台風で不通となった関西線が名古屋まで復旧するまでは桑名から大垣経由で、東海道線で通学しました。田中壽一氏が亡くなったのは短大部2年生の時ですが、昼間部の学生たちと違って、仕事を済ませてからの慌ただしい登校と、深夜の帰宅の日々。創設者の追悼式の内容や、学生の手で「名城大学新聞」が発行されていることも知りませんでした。
伊藤さんは短大部を卒業した1961年、第二法商学部商学科(中村校舎)の3年生に編入し、教員免許の取得をめざしました。先輩学生から学生会会長に推されて就任したことで、初めて学園紛争の現実に直面。重苦しい空気を少しでも振り払おうと、弁論大会やソフトボール大会の開催に続いて、「講演の夕べ」の復活に全力をあげたそうです。
伊藤さんは、さらに大学院に進学。高校の非常勤講師もしながら昼間の大学院生活2年を経て愛知県立高校の教員になりました。県立高校の最後の勤務校は緑丘商業高校でした。
「学生時代の最大の思い出は、自分の力で6年間、名城大学で学び続けたこと。そして、大学にたちこめていた紛争の暗雲を払いのけようと美濃部さんの講演会を実現させたこと。田舎者でしたが、自分の負けず嫌いをほめてやりたい気持ちでいっぱいでした」。愛知県春日井市の自宅で伊藤さんはかみしめるように語りました。

美濃部氏に講演を依頼するため、伊藤さんと一緒に上京し、卒業後は国鉄マンだったという柳原さんの自宅に電話を入れてみましたが、柳原さんは2013年11月に他界していました。電話に出た奥さんも「主人は伊藤さんと一緒に美濃部さんを訪ねて上京した時の思い出を何度も何度も、誇らしげに語っていましたよ」と語ってくれました。

(広報専門員 中村康生)

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