特設サイト第3部 第10回 国会へ
伊勢湾台風の夜
1961年3月に法商学部商学科を卒業した石川県小松市の八田幹也さん(78)は、駒方校舎での学生時代、自らが創部した水泳部のキャプテンを務めると同時に、春と秋は準硬式野球部員として白球を追っていました。水泳部は1年目は同好会でスタートし、2年目からクラブに昇格。練習は駒方校舎に近かった南山大学と名古屋商科大学のプールを使わせてもらいました。
伊勢湾台風(1959年)の恐怖を体験したのは3年生の時です。八田さんは学生寮「志尚館」の寮長でもあり、40人の寮生たちとともに1か月近く被災現場での勤労奉仕に明け暮れました。夜警アルバイトで得た金で米を買い、自分たちで炊き、握ったおにぎりを持参し、南区の堤防で遺体を並べたり、中区の金山体育館で全国から続々と届く義援物資の配分作業に追われました。
八田さんは台風当日の9月26日夜、激しい風雨の中を、瑞穂競技場近くにある母親の弟である叔父宅へ走りました。叔父は新聞社の社会部長で、職場で陣頭指揮にあたっているはずでした。電話が通じないため心配した通り、駆け付けた時、叔母といとこら女性4人が、部屋に運び込んだタンスに囲まれ身を寄せ合い、不安に震えていました。叔父は午前3時ごろ、新聞社の車で駆けつけ、「お前のおかげで助かった」と八田さんに声をかけ、職場に戻っていきました。
国会へ陳情
学生たちが伊勢湾台風被災者の救援活動に追われている中、紛争解決の糸口が見えない名城大学では教授会、教職員組合、学生会を中心に、国会や文部省に窮状を訴えるための陳情を行う準備が活発化していました。
名城大学教職員組合(西山富夫組合長)は10月、「学校法人名城大学の機能停止に関し国会の国政調査権発動要請についての陳情書」を国会に提出。提出に至った理由を①名城大学は理事長の職務放棄によって大学教育機関としての機能を失している②名城大学約6000の学生は正常かつ安心のできる授業を受けられず、重大な不利益を受けている③名城大学教職員は2か月にわたる給料不払いと大学機能麻痺のため、生活上、職務上重大な危機にさらされている――としています。
10月10日には名城大学協議会代表の矢野勝久教授(行政法)(1982年4月から1985年3月まで学長)や組合、学生会、校友会代表が参院文教委員会を訪れ、陳情書を提出し、田中壽一理事長らから事情を聞くとともに、場合によっては国会の国政調査権を発動して現地調査してほしいと要望しました。
「朝日新聞」(10月11日)は、参院文教委員会が名城大学紛争について調査に乗り出す見通しであるとの記事とともに、矢野教授のコメントを紹介しています。
「さらに衆院文教委員会でも取り上げてもらえるよう運動する。田中理事長が話しても分からぬ人なので国会に持ち込むことにした。文部省にもたびたび陳情したが、私学に対してはあまり干渉出来ないとのことで、国会に持ち出すほかに手はなくなった。名城大学は予算制度が確立しておらず、田中理事長が金庫のカギ、印鑑、小切手などを持っているので大学はその日その日の金に困り、学長や教授の信用借りでガスや電気代を払い、電話も教職員が買い戻したりして経営を続けている。個人の無茶な振る舞いで大学がこんなに混乱していいものだろうか。6000人の学生が気の毒だし、私学全体の問題として教育を守る立場から戦っているわけだ」。
八田さんは寮生たちに背中を押される形で、法商学部の学生会(駒方学生会)の会長候補に担ぎ出されました。選挙により会長に選出されたのは1960年2月20日ですが、八田さんは伊勢湾台風から1か月後にはすでに動き出していました。「大学の危機だと思った。伊勢湾台風の救援活動の一方で、市民への署名活動。できる限りのことを夢中でやった」。署名集めでは、多くの市民が温かく応援してくれました。
八田さんと同学年ながら、すでに理工学部学生会長だった上田久さん(76)(愛知県知多市)が保存するノートにも、1959年10月の活動の足跡が記されていました。
17日/国会・文部省への陳情書類準備を完了する。18日/国会・文部省へ陳情団派遣する。各学生会代表を東都に送り、この問題の実情を報告するとともに、衆議院文教委員会にも取り上げてもらうのが目的であった。
国会へ
八田さんも国会への陳情では6回、東海道線の準急で上京しました。「料金が安い旺文会館(その後日本学生会館に改称)に泊まりました。この問題が解決するまで酒は飲まないと誓い合いました」。
国会では加藤鐐五郎(自民)、横山利秋(社会)、赤松勇(同)、春日一幸(民主社会)ら愛知県選出の議員たちが超党派で応援してくれました。名古屋では最大の発行部数を誇る新聞社の社会部長だった叔父が紹介してくれたこともあり、社会党の横山議員などはよく八田さんを新橋に連れ出しては「俺の息子や」とうれしそうに紹介し、食事をごちそうしてくれたそうです。
日米安保条約の改定が近づくなか、全国の大学は騒然とし、安保反対運動が高まっていましたが、イデオロギー的な政治色は絡まず、ひたすら母校の正常化を訴えて国会を訪れた名城大学の学生たちに対し、議員たちは好意的でした。
岸信介首相が率いる第2次岸改造内閣(1959年6月18日~1960年7月19日)の時代でした。閣僚の顔ぶれでは、大蔵大臣は岸の弟である佐藤栄作、農林大臣は福田赳夫、通産大臣は池田勇人、科学技術庁長官は中曽根康弘と後に首相の座に上り詰める実力者たちがずらりと並んでいます。そして文部大臣はすでに名城大学の若い卒業生たちからの陳情にも耳を傾けていたアメリカ留学体験を持つ松田竹千代でした。
衆院文教委員会の主要ポストにも後に首相となる顔ぶれがそろっていました。委員長は大平正芳(第68、69代首相)。政府委員である文部政務次官は宮沢喜一(第78代首相)です。さらに、委員会理事には竹下登(第74代首相)もいました。
「松田文部大臣も誠実に話を聞いてくれ、名城大学の学生たちを救おうということで動いてくれていることがひしひしと伝わってきました」と八田さんは語ります。「名城大よりも歴史のある明治、慶応、早稲田といった私大でも、みんな大なり小なり紛争はあった。その時その時でみんな学生たちが頑張って克服してきた。だから君らも頑張らなくては」と励ましてくれる議員もいました。訪れるたびに、「また来たか」と温かく迎えてくれる議員たちの対応に、名城大学の学生たちが優越感を感じたことさえあったそうです。
参考人発言した理事長と学長
「私立学校法(私学法)によって、所轄官庁は、名城大学のような問題を抱えた大学に解散命令が出せるはずだ」。委員の質問に、傍聴した名城大学の学生たちや教員らに緊張が走りました。1959年11月5日に開かれた参院文教委員会です。文部省の小林行雄管理局長は「助言はできるが直接の監督権は法的に認められていない。最終的な手段として解散命令は出せるが、あくまでも和解が成立するよう指導したい」と答弁しました。
そして名城大学紛争が、理事長、学長という当事者たちによって語られ、全国紙などによって大々的に報じられることになりました。11月11日に開かれた衆院文教委員会です。名城大学の日比野信一学長、田中理事長、日本私立大学協会会長の河野勝斎氏(日本医科大学理事長)、日本私立大学審議会会長の古田重二良氏(日本大学会頭)の4人が参考人として招かれ、意見を聞かれたのです。
<名城大学は私が建てたもの> 田中理事長は「名城大学は私が建てたもの。しかし、私はすでに5日、理事会の席上で理事長をやめて、大野氏(当時の自民党副総裁である大野伴睦氏の実兄の大野富之助氏)に譲り、平理事になった」「キリストでも釈迦でもみな非難を受けております。私は当然避難を受けることを満足としております。これ以上、私は言うことはありません」などと強気の発言を続けました。
<私立大学の公共性のために> 日比野学長は「伊勢湾台風対策で国会もご多忙中であるのに名城大学問題を持ち出し申し訳ありません。名城大学は台風禍に加えて重大な危機に直面しており、陳情にまかり出た次第です」と前置きしたうえで訴えました。「名城大学の問題は、教職員、校友会、学生、教職員組合全員が一致して教学を守ろうとする結果生じた事態です」「願わくば6000人の学生と300人の教職員のため、かつ私立大学の公共性のため、名城大学の違法状態を解消し、本来の平和なる、立派な私学の姿に立ち戻れますよう、何卒国会のご配慮あらんことお願いします」。
河野氏は、前年夏まで名城大学紛争の調停にあたったことについて、「同じ私立大学協会の加盟校である名城大学の紛糾事件が、社会的に非常に大きな問題となり、せっかく終戦後、我々に与えられた学校法人に関する法律の運営が誤るようなことがあり、将来、私学のために不幸が来るような法改正等の理由になることを恐れたからです」と主張。「私は田中氏を誤解していた。日比野学長の証言は事実でございます」と述べました。
最後に古田氏は「自主解決が望ましいが、急迫した事情もあり、早急に、この文教委員会とか私学審議会等に特別委員会を作り解決に乗り出すべきだ」と発言しました。
「解散命令は死刑宣告」
11月11日の衆院文教委員会では、午前中の参考人からの事情聴取に続いて、午後からは質疑が行われ、宮沢政務次官は、私学法の「解散命令」に関わる62条(所轄庁は、学校法人が法令の規定に違反し、又は法令の規定に基く所轄庁の処分に違反した場合においては、他の方法により監督の目的を達することが出来ない場合に限り、当該学校法人に対して、解散を命ずることができる)について発言しました。
「62条で解散を命令するということは、実はこれは学校法人を殺してしまうということ。いわば死刑宣告に等しく、学生や教職員の身の振り方にもかかわり、軽率に発動せられるべき規定ではないと考えます。(名城大学問題では)文部省として過去1年足らず、非常に苦しんできたが、この問題について世の中の関心も高まっており、考えようによっては、事態解決を促進しえるファクターではないかと思います」。宮沢政務次官は、私学法の精紳としては残念だが、62条を背景としながら、従来より積極的な立場に立たざるを得ないと文部省の方針を明らかにしたのです。
「おかしいのです」と田中理事長
午後1時52分から始まった午後の委員会が散会したのは4時13分。2時間21分に及んだ委員会では5議員が田中理事長らへの質問を続けました。
田中理事長が、紛争の調停役だった名古屋地裁の判事に品物を贈ったことで判事が裁判官訴追委員会に追訴され辞任したこと、さらに、田中理事長が、宮沢政務次官に金一封を添えた菓子箱を贈り、送り返された事実関係をただす質問に、田中理事長が事実を認め謝罪する場面もありました。孤立無援の中、懸命に弁解しようする田中理事長に、大平委員長が「質問の要旨に簡単明瞭に、的確に答えるように」と注意を促す場面もありました。
延々と続いた田中理事長の発言のうち、議事録に残る最後の部分は「私はワンマンをやったことはありません。私は先生方とけんかしたこともいっぺんもありません。おかしいのです」という発言で終わっています。
この日の委員会について「朝日新聞」は11月11日夕刊と12日朝刊で報じ、「田中参考人の終始突っぱねた返答に対して、同委員会も、政府の行政措置はやむを得ないという空気が支配し、5カ年にわたる名城大学の紛争問題も、これで新しい局面を迎えそうである」と解説を加えています。
「週刊新潮」の波紋
国会での名城大学問題が世論の注目を集めている中、地元紙でやはり大きく報道されたニュースがありました。「日比野学長らの解雇は無効」とする名古屋地裁の判決でした。名古屋地裁は1959年11月30日、民事訴訟での法廷闘争が続いていた名城大学の日比野学長派の「解雇無効、地位保全」と、田中前理事長派の「学長名の呼称禁止」のそれぞれの仮処分申請に対し、「憲法に保障される大学の自治、学問の自由は、教授の身分保障も当然含まれる」との立場から、日比野学長派の主張を全面的に支持、田中派の訴えを却下する判決を下したのです。
名城大学問題は、たびたび新聞の全国版紙面などで報じられました。そして、センセーショナルな見出しで売り込む週刊誌の標的にもなりました。八田さんは苦い経験をしました。法商学部学生会長だった1960年5月、「紛争を一日でも早く終わらせるために、我々のために書いてくれるなら」と学生会を代表して「週刊新潮」の取材に応じたことでした。
「週刊新潮」はこの当時、創刊4年目。6月6日号(5月30日発行)に掲載され記事には「これぞ地上最低の大学」の見出しが躍り、八田さんも驚くような、あちこちで集められた話が随所に盛り込まれた記事に仕上がっていました。「東海地方唯一の私立総合大学を誇る名城大学は、うち続く紛争で、ちかく解散のウキ目を見そうである――」。八田さんはすぐに取材を受けた記者に抗議しましたがどうにもなりませんでした。「一度活字になったらもうだめですね。記者は全然会ってくれない。雲隠れみたいでした」。
大学側は日比野学長と5学部長連名での抗議書を発表。全学生会協議会は6月4日、新潮社に八田さんら学生代表を送り、抗議書を提出。教授会代表も「記事は興味本位に書かれている」として、抗議書を手渡し記事の取り消しを求めました。しかし、週刊新潮編集部も回答書で反論し、記事は撤回されることはありませんでした。。
2014年3月19日に名古屋観光ホテルで開催された卒業後50年以上の卒業生が集う「スペシャルホームカミングデイ」。校友会会長としてあいさつした堀川浩良さん(1964年理工学部機械工学科卒)は、「週刊新潮」の記事によって、多くの学生たちが心に傷を負ったことを語りました。
「あの記事で、私も名城大学卒と胸を張って言えなかった。ここに集まったほとんどの方々も身をもって感じたと思います。でも見てください。中部地区では最大の卒業生18万人という立派な大学に育ちました。今は威張って名城卒と言っていただきたい」。
卒業34年後に聞いた創設者の名前
八田さんは1961年3月の卒業とともに、実家のある小松市に帰り、父親の後を次いで36年間、特定郵便局長を務めました。水泳との付き合いは続き、現在も小松市水泳協会会長、石川県水泳協会副会長を務めながら現役スイマーを続けています。2010年10月に石川県で開催された「第23回全国健康福祉祭いしかわ大会」(ねんりんピック)の水泳では、「混合メドレー261歳以上の部」(4人の合計年齢が261歳以上)に出場し優勝に輝いています。
1995(平成7)年7月22日、八田さんは金沢市で開かれた校友会石川県支部30周年記念総会で、思いがけなかった名城大学創設者の話を聞きました。八田さんの依頼で、来賓として出席した石川県選出の森喜朗衆院議員(第85代、86代首相)のスピーチです。「名城大学の卒業生の皆さんが、田中壽一さんに対してどんな感情を持っているかは分かりませんが、私は大学創設者としてはすごい方だった思います」と、100人近い参加者たちに建学者としての功績を語ったのです。村山富市内閣の時代で、自民党幹事長も務めた森氏は8月8日には村山改造内閣の建設大臣に就任します。
八田さんは森氏より1歳上ですが、地元同士ということで長い親交がありました。森氏の衆議院選初当選は1969年で名城大学紛争後です。卒業して34年後、突然のように聞かされることになった創設者の名前。八田さんは「森さんと田中さんとの接点はありませんが、文教関係にも深く関わった方なので、国会で名城大学問題が取り上げられたこともしっかり研究されていたのでしょう」と振り返ります。
今池の「バンビ」を探して
八田さんも今年3月のスペシャルホームカミングデイに参加。その際、学生時代を過ごした名古屋の思い出の街を歩きました。八田さんら法商学部学生会のたまり場は、今池にある「バンビ」という学生向けのコンパにも利用できる食堂でした。八田さんたちは学生会専用だった2階に陣取り、カレーライスを食べながら、名城大学をどうしたら正常化できるのか熱く語り合い、励まし合い続けました。
「バンビ」の店はもうすでにありませんでしたが、探し当てた所在地で、高齢になった経営者夫妻の懐かしい顔に再会することができました。卒業以来、すでに53年の歳月が流れていました。「もう昔のことですから、みんなわだかまりなく、いろんな話ができればそれでいいんです。スペシャルホームカミングデイという素晴らしいも催しを企画してくれた母校に感謝です」。八田さんはうれしそうでした。
名城大学の「水上競技部」(水泳部)は1967年からは毎年欠かさず、八田さんを頼り、夏合宿を小松市で開いています。2014年夏も8月9日~11日、26人が小松市に集まり、八田さんに見守られながら練習に取り組みました。
水上競技部の小松合宿45周年記念で水上競技部OB会18人、
現役学生22人も招かれ盛り上がった校友会石川県支部の2013年度総会
(校友会石川県支部ホームページから)
(広報専門員 中村康生)