特設サイト第1回 着信電話から懐かしい母校の名前

【岩手県宮古市で】 間一髪、津波からの脱出

  • 古舘さんが自宅に逃げ帰るために渡った宮古大橋と、漁船を押し流しながら閉伊川の堤防を越えて宮古市内に流れ込む津波(日本野鳥の会宮古支部の佐々木宏さん撮影)

名城大学農学部農芸化学科(1999年に応用生物化学科に改組)を1977年に卒業し、三陸海岸の岩手県宮古市で水産加工業を営む古舘(旧姓田村)和子さん(57)は大地震が起きた3月11日午後2時46分、宮古港の魚市場にいました。
沖合に豊かな三陸漁場を持つ宮古港には、本州有数の水揚げを誇るサケをはじめ、サンマ、アワビ、ウニ、ワカメなど四季折々の旬の味覚が水揚げされ、築地など全国の市場に届けられてきました。古舘さんは威勢のいい掛け声が飛び交う仲買人たちに混じって、目当ての魚を仕入れるセリに加わっていました。次のトロール船の水揚げ分を待つため、セリが小休止に入ってまもなく、大きな揺れが襲いました。地震はめずらしくない三陸ですが、尋常ではない大きな揺れに古舘さんは津波を直感しました。

「逃げなければ」。魚市場から自宅に帰るには、宮古湾に注ぐ川幅約200メートルの閉伊川(へいがわ)にかかる国道45号の宮古大橋を渡らなければなりません。車に飛び乗った古舘さんは思い切りアクセルを踏み込みました。運転していても伝わってくる地面の揺れ。車の窓からは大声で叫びながら、逃げようとする人たちが見えました。脅えるような青ざめた表情です。「立っているのが容易ではないほどの揺れなんだ」。古舘さんはそう思いました。すでに信号は止まっています。とにかく橋を越えないことに家には帰れません。80キロ近い速度で飛ばし5、6分後、自宅に駆け込みました。
古舘さんが逃げ帰ってまもなく、津波は閉伊川をさかのぼり、堤防を越えて滝のように市内に流れ込ました。日本野鳥の会宮古支部の佐々木宏さん(72)は、会議のため訪れていた宮古市役所庁舎4階から、閉伊川河口に迫る津波の猛威を連続写真に収めていました。津波は古舘さんが渡りきった直後の宮古大橋の下を、濁流となって漁船をのみこみながら市街地に流れ込んだのです。

3月13日付の河北新報は、「街をのみこんだ津波が引いた12日午前、市街地では逃げ遅れた人の遺体があちこちに見られた。流された漁船が医院の壁にぶつかったり、交差点で多数の車が積み重なったりした。6階建ての市役所は2階まで冠水し、閉伊川にかかるJR山田線の鉄橋も崩壊。宮古署も1階が水浸しになり、書類が道路に放置されたまま。市内を貫く国道45号は各地で寸断。」と報じています。

塩釜口のアパート

古舘さんは宮古高校時代、ボート部に所属。国体に3回、インターハイに2回、全日本女子選手権にも出場しました。地元の大手肥料会社に就職したくて農芸化学科のある大学を探し、名城大学に入学しました。大学では部活動はせず、ごく普通の学生生活を送りました。天白キャンパス東門に近い塩釜口の学生アパート。入居した日、買い物に出て、帰りのバスを乗り間違えてしまいました。やっとのことでアパートにたどりつきましたが、部屋に照明器具がないことに気付きました。暗闇の中、不安いっぱいの名古屋生活のスタートでした。
アパートの1年生は古舘さんだけ。「皆さんにかわいがってもらいました。4年生の人が卒業し、就職した滋賀県までみんなで泊まりに行ったこともありました。農学部のクラスで、車何台かで愛知県の海岸に出かけバレーボールをしたりして遊んだこともあります」。楽しい思い出が詰まった学生生活でした。

農学部の指導教授からは製菓会社の研究室への就職を勧められましたが、父親の希望もあってUターン。2年後に結婚し、夫とともに水産加工「古舘商店」を切り盛りしながら2人の子供を育て上げました。しかし、夫婦で孫の成長を楽しみにしていた3年前、夫に先立たれてしまいました。「夫と頑張った証でもある店を守り続けたい」。古舘さんは夫に代わって魚市場の仕入れに立ちました。女性はただ1人。たくましい男たちに埋もれないよういつも最前列に立ちました。「きょうは孫の誕生日なの。お願いだからこのカニ、私に買わせて」「ああいいよ」。夫をよく知っている仲買人たちはみんな温かく応援してくれました。

避難所へ

  • 校友会東北支部長の野神さんからの連絡を受けた古舘さん(7月17日、避難所となっている岩手県宮古市の藤原小学校で)

宮古大橋を渡り切り、古舘さんが逃げ帰った木造2階建ての自宅ではコーギー犬「もも」(メス8歳)が留守番をしていました。介護関係の仕事をしている長男夫婦はそれぞれの職場に、孫3人は保育園、小学校です。津波が押し寄せるまで時間はほんのわずかしか残されていません。
古舘さんは夢中で貴重品類を階段の上に運び上げ、鍵をかけると、ももを抱きかかえて近くに高台に逃げました。どす黒い津波が襲ってきたのはそれからすぐでした。一波目に続いて、二波目が堤防を越えて自宅方向に向かってくるのがはっきり見えました。車やら、水産加工用の機材、大きなタンク、建物の一部がものすごい勢いで流れてきます。「お願いだから家にだけにはぶつからないで」。祈るしかありませんでした。
家は流されませんでしたが全壊でした。大量の泥が流れ込み、柱2本が抜けたうえ、大きな冷蔵庫2台のうち1台は1階天井を突き破り、もう1台も座敷に上がりこみ配電盤を破壊していました。魚市場での仕入れ分に支払わなければならないお金を置き忘れた車もどこかに流されましたが、翌日、流されて来た家の屋根に乗っかっているのを見つけました。支払い用のお金も泥まみれでしたが残っていました。

古舘さん、長男夫婦、孫3人の家族6人と愛犬もも。小学校での避難所生活が始まりました。解体することが決まっているとはいえ、古舘さんは1か月間、朝5時から自宅に出かけ、泥をかき出し、掃除を続けました。思い出がいっぱい詰まった家がいとおしくてなりませんでした。泥まみれだった家の清掃が一段落して間もなく、古舘さんの携帯電話に着信がありました。仙台市に住む名城大学校友会東北支部長の野神修さん(72)(1962年理工学部卒)からの安否を気遣う電話でした。卒業して34年。久しく聞くことがなかった「名城大学」という母校の名前が耳に飛び込んできた時、古舘さんは、懐かしさと同時に、熱いものがこみ上げてくるのを感じました。

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