特設サイト第11回 福島からの再起


  • 福島県は干し柿の産地。相馬市に隣接する福島県新地町の津波被害を受けた農家には、主はいなくても柿が立派に実っていました。

「杜の都駅伝」の熱気から一夜明けた10月24日、仙台駅からJR常磐線の電車と代行バスを乗り継ぎ、福島県相馬市に住む名城大学卒業生で元相馬市職員の佐藤芳男さん(1972年法学部卒)を訪ねました。津波による大きな被害に追い打ちをかけた東京電力福島第一原子力発電所事故による恐怖と不安。福島県沿岸の人たちがどのように困難に立ち向かってきたか、話を聞かせてもらおうと思ったからです。

【相馬市で】 新幹線での脱出

  • JR常磐線の相馬駅前。代行バスの発着だけのせいか人通りは少なめでした。

東北新幹線の那須塩原―東京間の運転が再開されたのは大震災から4日後の3月15日。運転再開と同時に、栃木県那須塩原市の那須塩原駅には、福島県からの車が殺到し始めました。東京方面に避難しようという人たちの車です。駐車場はたちまち福島県ナンバーの車で満車状態になりました。

佐藤さんも家族5人で3月20日、福島県相馬市の自宅から那須塩原駅を目指しました。長女友紀子さん(33)と4歳の孫佳怜(かれん)ちゃんの2人を東京の親類宅に送り出すためです。福島第一原発(福島県大熊町・双葉町)での水素爆発に伴い、震災は深刻な展開を迎えました。原発に近い住民たちは住みなれた町からの避難を余儀なくされたのです。相馬市は第一原発からは約40キロ離れており、避難が強制される地域ではありませんが佐藤さんは不安でした。「やがては相馬市まで放射能の被害が及ぶのではないか」。

佐藤さんが最初に考えたのは家族全員での福島県からの脱出でした。相談した新潟県内の母の兄弟たちからは「来ていいよ」という返事をもらいました。ただ、親類とは言え、どの家もすでに世代交代しています。一家をあげて世話になっていいものかどうか。迷い、考え抜いたすえ、佐藤さんは、将来のある子供や孫だけを避難させることにしました。幸い、気さくに声をかけてくれる東京の親類が受け入れてくれることになりました。しかし、相馬市で郵便局に勤務する長男の誠之(たかゆき)さん(31)は仕事から離れることができず、とりあえず友紀子さんと佳怜ちゃんを非難させることになりました。

那須塩原駅までは、家族がそれぞれ乗っている車4台分のガソリンをかき集め、誠之さんがハンドルを握りました。相馬まで帰るためのガソリンが間に合うか心配でしたが、東北自動車道のサービスエリアで1000円分のガソリンを給油することができました。

友紀子さんと佳怜ちゃんを新幹線に乗せて東京に送り出した後、佐藤さん夫婦と誠之さんは那須塩原のホテルに泊まりました。ホテルも地震でかなり大きな被害を受けていて、宿泊客は他にいません。「もうだめだ。閉めるしかないな」。支配人たちのため息まじりの会話が、電話しようとしていた誠之さんの耳に入ってきました。栃木県内のスーパーを3店回り、福島県内に住む佐藤さんの兄弟たちにも配るため、食料や飲料を買い込みました。やはり、生まれ育った相馬で頑張るしかないのです。

津波への無警戒

相馬市の震災被害は、行方不明者を含む死者は459人、家屋等の流出は1000棟を超えました。津波で約850戸が流出した海外沿いの6地区の約110ヘクタールは災害危険区域に指定され、防波堤や避難経路の整備などの防災、減災対策が施されるまで、住宅や病院、旅館など、宿泊できる建物は建築できなくなっています。

同じ東北でも、先祖代々から津波の恐怖と向き合ってきた岩手県や宮城県の沿岸の人々と違って、福島県沿岸の人々は津波への警戒心は強くありません。佐藤さんの親類も3月11日午後、浜の近くで、携帯ラジオを持ち込んで畑仕事をしていて大地震に遭いました。防災無線も壊れたのか、機能しませんでしたが、ラジオで岩手県に津波が押し寄せていることを知り海辺から逃げました。途中、会った人たちにも「逃げろ」と声をかけましたが、「大丈夫」と逃げなかった人たちが多かったと言います。「相馬の人間は津波に慣れていませんでした。一刻を争って逃げなければならないのに、スタンドで給油していた人もいたほどです」。佐藤さんは残念そうに振り返ります。

失われた海

  • 海岸沿いの通りの津波被害に遭った建物と傾いた電柱
  • 地盤沈下で海に沈んだ住宅
  • 港につながれた漁船を背に出漁できないつらさを語る佐藤さん

福島県は南北に連なる奥羽山脈と阿武隈山地の2つの尾根によって、西から会津、中通り、浜通りの3つ地域に分けられます。相馬市は太平洋に面した浜通りです。市役所など海岸から離れた市街地は津波被害を受けず、城下町のたたずまいを残したままです。壊滅的な被害を受けたのは海沿いです。相馬市は東北有数の漁業基地。汽水湖の松川浦にある松川浦漁港でのイカナゴ、カレイ、タコ、ホッキ貝、アナゴ、ヒラメ、メバルなどは全国有数の水揚げを誇っています。

観光客にも人気の水産物直売センターでは相馬名物のカレイ、松葉ガニが格安で販売されます。最近は東京方面からも相馬にカニを食べに来る観光客も増えていました。佐藤さんにとっても、相馬の魚は自慢でした。しかし、津波によって港は大きな被害を受けただけでなく、原発事故により、浜通りの海は死んだも同然になってしまいました。放射性物質を含んだ汚染水が放出されことで、禁漁が続いているからです。「これからはサンマがどんどん南下してくるというのに、福島の沖では漁ができないんです」。佐藤さんは無念そうです。

佐藤さんの車に乗せてもらい、秋雨の中でしたが、津波被害の爪痕が痛々しい相馬の海岸沿いを見せてもらいました。根こそぎ津波にさらわれた防風林。外見はそのままでも中は損壊したままの水産加工場。傾いた電柱。地盤沈下で海に浸かった住宅。そして港には漁に出ることが出来ない漁船がずらりと並んで繋がれていました。海に生きる漁師たちにはつらい光景であるに違いありません。

引き裂かれる絆

  • 東北本線から常磐線に分かれる岩沼駅の運賃案内。第一原発周辺駅の浪江、双葉、夜ノ森などの下の運賃欄は黒塗りになっています。

福島県災害対策本部の10月31日現在のまとめによると、同県から県外への避難者は5万8005人に上り、避難先は北海道から沖縄県まで46都道府県に及びます。最も多い県が山形県で1万2202人。次いで新潟県6390人、東京都6345人で、愛知県にも823人が避難しています。愛する故郷から離れなければならないつらさ。福島の人たちにとって、故郷との絆を引き裂かれた状態なのです。

東京の親類宅に避難のため身を寄せていた佐藤さんの長女友紀子さんは1か月後、佳怜ちゃんと一緒に相馬市に戻ってきました。相馬市で観測される放射線量は0.3~0.4マイクロシーベルトとほぼ安全な数値で安定していること、親類とはいえ、いつまでも頼っているわけにはいかないからです。友紀子さは以前のように、南相馬市の原町に仕事に出かけるようになり、震災前の生活パターンに戻りました。しかし、佐藤さんには、原発から30キロ圏に通勤する友紀子さん、40キロ圏ではありますが、マスクをして毎日オートバイでの郵便配達を続ける誠之さんの放射能被害が心配でたまりません。

佐藤さんは、このままでは相馬市が福島県の「陸の孤島」になってしまうのではないか心配しています。津波で流され、寸断されたJR常磐線は仙台方面への区間はそのうちに復旧し、代行バスなしで仙台まで電車で行けるようになるでしょう。しかし、南相馬市の原ノ町駅から東京方面に向かう先は福島第一原発事故での警戒区域で、立ち入ることすら出来ません。浪江、双葉、夜の森、富岡駅。原発周辺にあるこれらの駅を通って、東京まで電車が走る日は、佐藤さんが生きている間には来ないかも知れません。原発への不安が一掃されない限り、浜通りは寸断されたままになる可能性も高いのです。

「買い物は仙台に出ることが多くなる。東京に出るにも仙台経由ですし、飛行場だって福島空港より仙台空港がはるかに便利。相馬市は福島県の孤島になりつつあります」。福島県民同士の絆が引き裂かれ、福島県という故郷が遠ざかっていくようなやるせない現実に、佐藤さんは声を落とします。

故郷への誇り

佐藤さんは名城大学を卒業後、東京の薬品会社に勤務。国分寺市にある営業所に配属され、埼玉県内の病院や問屋を回っていました。しかし、1年ほどして、父親が倒れたため、家族の強い要望もあり、故郷の相馬市にUターンし相馬市職員になりました。一昨年3月、教育委員会の東部公民館長を最後に定年退職するまで、様々な行政現場を体験してきました。県の開発事務所に派遣され、相馬市の地域開発の仕事にも関わりました。1974年から2009年まで、相馬市とともに歩んだ35年。相馬市の10月1日現在の人口は約3万6600人。佐藤さんが職員になった当時が約3万7500人ですから、大きな減少はしていません。

「極端な人口減とならなかったのは、地元に残りたいという若者を増やそうという、企業誘致など地域開発事業の成果です」。佐藤さんには、自らも企業誘致に関わった自負があります。

誘致したIHI(旧石川島播磨重工業)の相馬工場も今回の津波では大きな被害を受け、航空機エンジンの部品工場が一時操業停止に追い込まれました。当初は「復旧には半年必要」という見通しもありましたが、5月13日には完全復旧を果たしました。日経産業新聞は「2か月で戻ったのは約1500人の従業員たちの頑張りだ」(5月31日付)と、震災で試された相馬の人たちの底力を紹介しています。

前を向かなければ

  • 「名城大学通信」(2007年4月号)の「輝く卒業生」で紹介された青木康典・知子さんペア

佐藤さんは10月、熊本市で開かれた「ねんりんピック2011」(第24回全国健康福祉祭くまもと大会)に出場しました。60歳以上の高齢者がスポーツと文化を通じて交流する大会です。全国から選手・役員約1万人が参加し、15日から18日までサッカーやマラソン、ゲートボールなど22種目が行われましたが、佐藤さんはダンススポーツの福島県選手団8人のうちの1人として参加しました。

「東日本大震災で多くの方々から受けた温かいご支援に深く感謝致します。また、皆様と大好きなダンスを一緒にできる喜びをかみしめ、ダンスを復興の糧として頑張っていきます」。大会プログラムのチーム紹介に寄せられた福島県チームのメッセージです。佐藤さんはパートナーとワルツを踊り、全国8位に貢献しました。

佐藤さんが社交ダンスに巡り合ったのは50歳を過ぎてからです。高校時代までは柔道、陸上、空手とかいろんなスポーツを体験しましたが、名城大学の学生時代は特にこれというスポーツには関わりませんでした。ダンスとの出合いはたまたまですが、背中を押してくれたのが、ダンス専門誌に紹介された名城大学出身のプロダンサー青木康典さん(1992年法学部卒、旧姓・山本)の記事です。青木さんは妻知子さんとのペアで、2007年の全日本ショーダンス選手権で優勝するなど、「魂のカリスマダンサー」として活躍するダンサーです。

「自分の後輩ではないか」。佐藤さんは驚くとともに、嬉しさがこみあげてきました。「こういう世界で頑張っている後輩もいるんだ」。青木さんの優雅な踊りを紹介した記事もきっかけとなり、佐藤さんを社交ダンスと本格的に向き合うようになりました。

震災以降、ダンスなど踊る機会はありませんでした。今回のねんりんピック出場のきっかけは、過去の実績をもとに福島県が打診してきたからです。「いつまでも下ばかり向いてはいられない。前を向いて歩き始めなければ」。佐藤さんはそう自分に言い聞かせて出場を決めました。ひょっとしたら、「先輩頑張れ」という青木さんの声援が聞こえたのかも知れません。仙台での女子駅伝部の活躍も嬉しいニュースでした。「卒業生にとっては大きな励みになります」。つらい体験を語り続けた佐藤さんにやっと笑顔が戻りました。

起き上がり小法師

  • 「前を向いて歩き始めなければ」と語る佐藤さん(相馬駅近くで)

東日本大震災で被災した名城大学の卒業生たちの安否を気遣っている校友会東北支部長の野神修さん(1962年理工学部卒)のもとに、10月19日、南相馬市から名古屋市に避難中の大橋偉身(ひでみ)さん(1975年理工学部卒)からはがきが届きました。校友会から贈られた追加見舞金への礼状でした。

5月中旬に届いた最初の見舞金への礼状では「原発事故の影響で母校がある名古屋に避難し、現在、市公社住宅にて生活しています。原発事故の今後もあり、郷里に戻れるかどうかもわかりません」と書いていた大橋さん。今回のはがきの文面では、大橋さんは体調を崩し入院中とのことです。久保田達文さん(2002年商学部2部卒)からも連絡がありました。久保田さんは第一原発から20キロ圏内の楢葉(ならは)町に住んでいましたが、町役場機能は福島県会津美里町、いわき市に移転。久保田さんも家族とともにいわき市に引っ越しています。

野神さんが10月22日現在でまとめた「見舞金対象者」で福島県の該当者は7人ですが、20キロ圏内の富岡町、浪江町、そして南相馬市の3人とは連絡が取れないままです。3人の無事と、大橋さんの健康の回復、間もなく結婚予定だと言う久保田さんの幸せを、そして佐藤さんら福島県の全て人たちの再起を心から願わずにはおられません。七転八起の願いが込められた福島県の民芸品、起き上がり小法師(こぼし)のように。

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「名城大学きずな物語」では、東日本大震災を通して、名城大学にかかわる人たちを結びつけた絆について考えてみたいと思っています。「名城大学きずな物語」を読まれてのご感想や、どのような時に名城大学との絆を感じるか、母校とはどんな存在なのかなど、思いついたご意見を名城大学総合政策部(広報)あてに郵便かEメールでお寄せください。

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