特設サイト第3回 津波は白い煙とともに迫ってきた
【宮城県気仙沼市で】 市役所窓から見えた土ぼこり
校友会東北支部長の野神修さんが作成した「地震被害調査表」で、「家族共々元気。市役所土木課長として復旧に奮闘中。家具被害」と記載されたのは理工学部土木工学科を昭和56年(1981年)に卒業した宮城県気仙沼市の広瀬宜則さん(54)です。正式な肩書は気仙沼市建設部の「三陸道・大島架橋・唐桑(からくわ)最短道・本吉バイパス整備促進課」という長い名前の課の課長。3月11日、気仙沼市では市議会が開会中で、広瀬さんは予定されていた建設部関連での質問に対する答弁資料を点検しているところでした。
議場に向かおうかなと腰を上げかけた午後2時46分、激しい地震がありました。とてつもなく大きな揺れです。停電でテレビの映像も消え、外の様子を知る情報は途絶えました。津波警報が鳴り響き、議会は直ちに解散となりました。津波が押し寄せるまでの30分はあっと言う間でした。
高台にある市役所木造庁舎は、「尋常小学校時代からの建物で築100年」と言われています。「ひょっとしたらここは校長室だったかも知れません」と広瀬さんが言う建設部の部屋の窓からは気仙沼湾に浮かぶ宮城県最大の離島・大島が見えます。その時、広瀬さんらが窓に目をやると、湾の方から白い煙をあげて迫って来るもがありました。広瀬さんは最初、「何だろう」と思ったそうです。巨大津波だったのです。津波は家屋をなぎ倒し、土ぼこりとともに、港から1キロも離れていない市役所前まで押し寄せてきました。
大島からの悲鳴
市役所は戦場となりました。被害状況の把握。押し寄せてくる避難住民や避難所の設置。救急救命、食糧の確保、情報伝達。しなければならないことは山ほどありました。広瀬さんにとって大島も心配でした。気仙沼に浮かぶ大島の人口は3200人ほど。東北地方で人の住む島としては最大の島です。気仙沼市街地とは最短では300メートルしか離れていないにも関わらず橋がないため、島民は長い間、生活のいろんな面で制約を受けてきました。「本土と結ぶ橋がほしい」。橋の建設計画は島民の40年来の悲願として促進運動が進められてきました。広瀬さんは3年前に大島架橋の担当になり奔走を続けてきました。そしてついに2018年度完成を目指し、2011年度からの事業化が決まりました。「3月末にはみんなで万歳をしようね」と島民たちと喜びを分かちあっていた矢先での巨大地震と津波だったのです。
大島は東西から津波に襲われ、完全に孤立しました。中央部は海水に覆われ、湾口のタンクが倒壊し、引火した油が大島にも押し寄せ1週間燃え続けました。島の死者・行方不明者は30人にのぼり、1500人が避難所生活を余儀なくされました。3月11日夜、市役所の災害対策本部にいた広瀬さんは無線を通して島民の悲鳴を聞き続けました。「逃げるところがない」「船もみんな流された」「火事が起きている」。昼は本土で働いている人たちが多く、島に残されているのはお年寄りや子供たちが多い大島。「これ以上火事が広がったら全員焼け死んでしまう」。広瀬さんらは手の打ちようがないまま、夜明けを待つしかありませんでした。
悲しい言い伝え「てんでんこに」
広瀬さんの市役所での泊り込みは1週間続きました。携帯電話は10回かけて1回くらいしか通じませんが、何とか家族全員の無事は確認することができました。山側にある自宅も無事でした。しかし、家族を失ったり、家族と連絡が取れないままの同僚、自宅を焼失した同僚もたくさんいました。
国内有数のカツオとサンマの水揚げで知られる気仙沼市の人口は約7万4000人。気仙沼湾を囲むように小高い山が迫り、市民の多くは海岸付近の平地に住んでいます。今回の震災では湾の西側では海岸から内陸約1キロまでの住宅街が壊滅するなど、死者・不明者は2000人を超えました。押し寄せた津波に、一目散に逃げて助かった人たちがいる一方で、家族を迎えに行って犠牲になった人たちがたくさんいました。道は逃げ出す車であふれてパニックになり、そこに津波が押し寄せたのです。
「津波の時はてんでんこに(勝手に)逃げろ」。昔から津波で多くの犠牲者を出してきた東北地方沿岸部に伝わる、津波から生き延びるための言い伝えです。しかし、現実には、多くの人たちは、肉親を助けるため自分一人では逃げようとしませんでした。広瀬さんは「てんでんこに」の言い伝えの悲しさをかみしめるしかありませんでした。
夕方、広瀬さんの運転する市役所の公用車に乗せてもらいました。密集した住宅地を走る道路は狭く、帰宅時間帯と重なったこともあり、市役所前の信号交差点を右折するだけでも何度も何度も青信号をやりすごました。「通常の津波であるならば、水門を閉めろとか、浸水区域から人を避難させろとかといことになりますが、今回はそんなレベルではありませんでした。自分の身は自分で守らなければと言っても、パニック状態になった道路ではどうしようもなかったんです」。ハンドルを握りながら語る広瀬さんは無念そうでした。震災後の広瀬さんは1万台を超す被災車両の処分業務に追われています。
流される家に人が
1964年に理工学部建築学科を卒業した堀籠正生さん(70)も気仙沼市に住んでいます。自宅は東に気仙沼湾を臨む高台にあり、下には国道45号線が南北に走っています。ここでも、渋滞中の車が津波で一気に流され、引き潮で海にもっていかれるという悲劇が起きました。ものすごい地震の揺れで堀籠さんは自宅から飛び出しましたが、揺れは激しく、建物が壊れてしまうのではと思うほどでした。やがて、ゴーっという地鳴りのような音がしばらく続きました。津波の第1波が来て、引き潮になっていきました。海岸沿いにある家が次々に流されています。
堀籠さんは建設総合プランニングのコンサルタントをしています。気仙沼市で建設会社に勤務した後に独立しました。15年ほど前から風景写真を撮り始め、仙台での「杜の都駅伝」では、名城大学校友会東北支部の"代表カメラマン"を自任し、後輩にあたる選手たちの力走ぶりをカメラに収めてきました。車で移動しながら2区、4区、そして仙台市役所前のゴール地点に撮影ポイントを置き、奥さんに脚立を押さえてもらいながらシャッターチャンスを狙って来ました。
「あそこを撮ってくれえ」。高台で居合わせた人の声に、堀籠さんはシャッターを押し、はっとしました。流されていく建物の残骸の上には、恐怖に怯えながら前方を見据える女性の姿があったのです。最初は「撮っておかなければ」と思ってシャッターを押した堀籠さんでしたが、さらに、子供が中にいるらしい建物が流れてきた時は凍りつく思いでした。「助けてえ」という叫び声。破壊された建物の屋根の裏に子供がすがっているようでした。その後も堀籠さんはつらい光景を、これでもかというほど見せつけられました。遺体も見ました。とてもシャッターなど押せるものではありませんでした
その夜の冷え込みはものすごく、雪が降りました。電気、水道などライフラインが止まるなか、堀籠さんの家では借りてきたダルマ型ストーブで暖をとり、食事を作りました。高台下の岸壁にあるタンクから重油が流されて引火、湾奥に入って次々に炎上しました。夜空を焦がす真っ赤な炎。堀籠さんが写した写真手前の家々の屋根には白い雪がうっすらと積もっていました。
母校からボランティアの学生たちが
広瀬さんが名城大学に入学したのは1976年(昭和51年)。入試は東京で受験したので、入学式当日、初めて名古屋駅に降り立ちました。雨が降っていました。友達も知り合いも誰一人いない名古屋。「さあ、どうやって、やっていこうかな」と、自分に言い聞かせながら踏みしめた一歩だったことを今でも覚えているそうです。病気で1年休学したため名城大学には1976年から81年まで在籍しました。農学部を1977年に卒業した岩手県宮古市の古舘和子さんより3歳下ですが、同じ天白キャンパスでの学生生活を2年間共有していたことになります。
土木工学科では実習が多く、サークル活動をする余裕はありませんでしたが、他大学の女子学生も参加するコンパに加わったこともあり、お金はなくても楽しい学生生活を送ったそうです。卒業後はUターンし、土木技師として気仙沼市役所に就職しました。卒業後、親しかった学生時代の仲間同士で名古屋に集まったのは2005年の愛知万博の時を含め2回だけですが、今でも気軽に電話し合う関係が続いています。大震災後も全国に散る学生時代の仲間たちが心配して電話をかけてきてくれました。「大丈夫か」「何か必要なものはないか」。親身になって心配してくれる友人たち。広瀬さんはかけがえのない絆を感じたそうです。そして、さらに母校との絆に胸が熱くなる出来事が起きました。名城大学の学生ら36人が大島支援のボランティア活動のため名古屋から乗り込んできたのです。
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