特設サイト第6回 命を救った決断


  • 津田さんが携帯電話のカメラで撮影した園舎の屋根で身を寄せ合う園児と教職員(3月11日午後4時16分)

【宮城県石巻市で】 園児ら屋根上で一夜

東日本大震災で、宮城県石巻市新館の学校法人亀山学園・石巻みづほ第二幼稚園では、園長の決断で園児11人と教職員ら13人が園舎屋根上に避難、寒い夜を明かして救助されました。園長は津田広明さん(71)。1963年(昭和38年)に理工学部機械工学科を卒業した名城大学卒業生です。防災無線で聞いた波の高さ9メートルという情報が決断のきっかけになったそうです。「もう命をかけるしかないと思った」と振り返る津田さん。津田さんは名城大学に入学した1959年(昭和34年)に伊勢湾台風に遭遇、アパートの屋根が吹き飛ばされるなかを命がけで避難するという恐怖の体験もしていました。

高校校長から幼稚園園長に

津田さんは2000年3月、宮城県立白石工業高校校長を定年退職。中学校時代の友人から頼まれたのが縁で10年ほど前から幼稚園の仕事に関わっています。
津田さんは亀山学園が経営する2幼稚園の園長を務めてきました。JR仙石線の石巻駅から仙台方面に2つ目、蛇田駅に近い石巻みづほ幼稚園と石巻湾の工業港に近い石巻みづほ第二幼園です。津波に襲われたのは第二幼稚園。一帯は地盤が80センチも沈下し、現在は新たな都市計画との関係もあり閉鎖されたままです。

津田さんは二つの幼稚園には午前と午後に分けて勤務してきました。3月11日は午前中、みづほ幼稚園に勤務し、昼からは車で第二幼稚園に移っていました。
第二幼稚園では3月11日、午後1時半ごろから160人近い園児たちのバス帰宅が始まりました。2時すぎ、園には預かり保育の30人近くと津田さんら教職員12人がいました。その後、園児の引き取りが続き、園児は13人になりました。

9メートルの波が来たら

そして午後2時46分、大地震が起きました。津田さんは13人の園児を鉄筋2階建て園舎の2階に集めました。断片的に外から聞こえてくる防災行政無線。「鮎川」「9メートル」という言葉が飛び込んできました。同じ石巻市内とはいえ、鮎川がある牡鹿半島と石巻工業港とはかなり離れています。目の前の港を見る限り、海の水が引いている様子はありません。ただ、津田さんは胸騒ぎを感じました。「9メートル」の言葉が引っ掛かったからです。高さ9メートルの津波が押し寄せたら園舎2階以上まで達することになります。

窓から目をやると、普段でも交通量の多い周囲の道路はすでに避難しようとする車で大渋滞となっていました。近くには高い建物もありません。津田さんは職員に「脚立を用意しておくように」と指示しました。二つ折りで使う脚立を真っすぐに開けば3メートルを超します。2階窓から棟続きのボイラー室の屋根に出て、そこから脚立をはしご代わりに使えば園舎屋根まで園児たちを避難させることができるはずです。「屋根の上に逃げよう」。決断した時、津田さんは、「もう命をかけるしかない」と思ったそうです。

脚立で屋根へ

「津波が来たっ」。女の先生の上ずった声が聞こえました。3時50分ごろでした。海の方に目をやると、濁流が滝のように流れこんでくるのが見えました。この時点で園児の人数は11人。さらに2人が迎えに来た親と帰ったからです。大人は13人。教職員12人と園児を迎えに来て逃げ遅れた父親が1人いました。

「屋根の上に逃げるぞ」。津田さんの指示で、2階の窓が開けられました。廊下に並べられた机を踏み台にして、園児、職員がボイラー室の屋根に出ました。大人13人のうち男性は4人。2人が脚立で園舎屋根へ。上と下で脚立を押さえていなければなりません。津田さんと父親が下に残りました。ズボンをつかまれた園児たちが次々に押し上げられました。途中から女の先生たちも上がり、屋根の上で園児たちを抱きかかえました。脚立はほぼ直角。屋根に上がり切る途中では園児の力だけが頼りになります。泣き出す園児もいました。最後に残った職員が脚立に手をかけた時、水はボイラー室の屋根までひたひたと迫っていました。

屋根の上からは濁流が一面に広がっているのが見えました。「大丈夫だ」「心配しなくていい」。津田さんは園児たちを励ましながらも、これ以上高い波がきたらどうなるのか、気が気でありませんでした。
午後7時ごろ。水が引き始めました。とりあえず、危機は脱したようです。全員が2階に戻りました。2階には瓦礫が流れ込み、床は泥だらけでした。津田さんはぞっとしました。壁には高さ1.5メートル付近まで津波が押し寄せた跡が残されていたのです。もし屋根の上に逃げていなかったら。

雪の夜を耐える

  • 園児救出の様子を伝える「河北新報」紙面(8月19日)

防災無線の放送は聞こえなくなっていました。設備が水に浸かり、作動しなくなったのかも知れません。津田さんには携帯ラジオを1階の机の引き出しに置き忘れたのが悔やまれました。携帯電話が通じた職員から「第2波が来るかもしれません」という声が上がりました。園児11人と大人13人は再び脚立を使い屋根に。
雪が舞う寒い夜でした。帰り仕度をしていた園児たちは防寒着を身につけていて、津田さんもたまたま車からヤッケと正ちゃん帽(毛糸の帽子)を持ち出していました。しかし、大半の教職員たち防寒着なし。三角屋根の上で園児たちを抱き寄せながら肩を寄せ合い、体操用マットで風を防ぎ続けました。

日付が変わった12日午前2時すぎ、「これ以上の高い波はこないだろう」。津田さんの判断で、全員2階に戻りました。しかし、夜が明けても園の周辺から水は引きませんでした。午前9時ごろ、海上保安庁の救助隊員が乗ったゴムボート2隻が到着。救出が始まりました。こうして全員が工業港から救命艇に乗り換え、海上自衛隊の護衛艦「たかなみ」に収容されました。

毛布の女性

  • 頼音ちゃん行方を捜す杉本優子さんの放心した表情を紹介した3月20日読売新聞の写真特集面(読売新聞特別縮刷版「東日本大震災1か月の記録」より)

亀山学園の2幼稚園では、帰宅していた8人の園児が命を奪われました。7人は港に近い第二幼稚園の園児でした。親も両園で4人、職員の親1人も亡くなりました。
第二幼稚園に残った園児と教職員ら計24人は3月12日、「たかなみ」に泊まりました。園児たちはさらにもう一晩過ごしてから石巻専修大学にヘリコプターで運ばれました。園児たちと親たちが再会を果たしたのは震災から3日後の14日でした。

3月13日朝、第二幼稚園近くの瓦礫の中で、毛布に身を包みながら、放心状態で長男の第二幼稚園児、頼音(らいと)ちゃん(5)の行方を捜す杉本優子さん(28)の姿がありました。杉本さんは、頼音ちゃんたち園児11人が幼稚園の屋根に逃れ、翌朝救助され、自衛隊の護衛艦上に保護されていたことを知りませんでした。被災した人たちの表情を追っていた読売新聞の記者が杉本さんをカメラに収めていました。3月20日の写真特集面で紹介された杉本さんの写真の下には「言葉もない-----がれきの中、水没した街を見つる女性」という説明記事が添えられています。

抱きしめた我が子

杉本さんが、どんな思いで頼音ちゃんを捜していたのか。頼音ちゃんと奇跡の再会を果たした時の喜びの様子を、4月15日の読売新聞は「毛布の女性 笑顔戻る」という記事で紹介していました。(記事は抜粋)

3月13日朝。杉本優子さん(28)は凍てつく寒さの中、毛布をまとい、水没した宮城県石巻市の街を見つめていた。目線の先には長男、頼音(らいと)君(5)が通う石巻みづほ第二幼稚園。津波にのまれ、連絡が途絶えていた。
あの日、隣町の仕事先で強い揺れに襲われた優子さんは車で幼稚園に直行したが、道路は寸断され近づくこともできない。翌12日、夫の晴典さん(36)と水没地区に入り我が子を捜した。「園児は救出された」という情報がある一方、「園児が流されるのを見た」という話も聞かされ、胸が引き裂かれそうだった。 震災から3日後。優子さんは園児が石巻専修大にいるという知らせを聞いた。同大に駆けつけ、頼音君を見つけた。ぎゅっと抱きしめた。懐かしい匂い、声、手足。「よかったね」。涙があふれ、それ以上言葉は出ない。

津田さんの伊勢湾台風体験

津田さんは名城大学時代に伊勢湾台風を経験しています。入学した年の1959年9月26日、東海地方を襲った伊勢湾台風は死者・行方不明者が5000人を超すという大きな傷跡を残し、1995年の阪神淡路大震災が起きるまで、戦後の自然災害での犠牲者数では最多でした。
伊勢湾台風での最大風速は60メートルと言われています。津田さんは、当時住んでいた清洲町(現在は清須市)のアパートで、瓦屋根が強風で吹き飛ばされ、救援にかけつけた消防団に救出されるという体験をしました。自室の2階の部屋中に割れた窓ガラスが散らばり、風を防ごうと、入居者6人で畳を窓に立てようとしましたが、あっと言う間に吹き飛ばされました。
天井がグワッと持ち上がる瞬間、周囲にあったものが浮き上がる真空状態も体験しました。天井が浮くたびに飛び込んでくる隣の家の瓦。救助を求めた消防団員が持参したロープを頼りに、必死の思いで避難所となった清洲小学校に避難しました。自然災害の猛威に対する恐怖をいやというほど体験しました。この年の5月、石巻市など三陸沿岸はチリ地震津波にも見舞われています。歴史に残る大きな自然災害が津田さんの身近なところで2度も起きていたのです。

絆ひき裂く自然災害の恐ろしさ

津田さんは伊勢湾台風が過ぎ去った後、1週間、勤労奉仕に没頭しました。ボランティア活動です。勤労奉仕現場として送り込まれたのは現在の名城大学天白キャンパスに近い八事の火葬場でした。5段、6段と積まれている台風での犠牲者の遺体の入った棺を、火葬炉に入れていく作業。つらい作業が朝から晩まで続きました。
尊い命を一瞬にして奪い、愛する者同士のかけがいのない絆を一瞬にしてひき裂いてしまう自然災害の底知れぬ恐ろしさ。東日本大震災で、津田さんの脳裏をよぎった伊勢湾台風の恐怖。園児たちを救った津田さんの決断には、こうした伊勢湾台風での生々しい体験があったからにちがいないと思いました。


  • 園児たちに囲まれた津田さん(8月24日、石巻みづほ幼稚園で)

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「名城大学きずな物語」では、東日本大震災を通して、名城大学にかかわる人たちを結びつけた絆について考えてみたいと思っています。「名城大学きずな物語」を読まれてのご感想や、どのような時に名城大学との絆を感じるか、母校とはどんな存在なのかなど、思いついたご意見を名城大学総合政策部(広報)あてに郵便かEメールでお寄せください。

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